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No.13 島役人から政治家へ

「封建の極北」と形容される薩摩藩の政治統制。鹿児島からやってくる「わずかな役人」が広域な奄美の島々で、蟻の這い出る隙もない黒糖収奪を遂げたのは、それを支える「大勢の島役人」による監視システム、ネットワークが存在したからに他ならない。

当然だが島役人たちはただ気前のいい塩ブタの運び屋だけだった訳でない。時には気の進まぬ藩の一方的なごり押しを、島民に伝達する役目も担ったろうし、賄賂も懐にしたろう。

関東軍が傀儡国家・満州国を建国できたのは中国側の協力者を得たことによるように、島役人と結ぶことで藩はその支配網を不動にした。従って島役人たちの他面の顔は藩と奄美の買弁役、パイプ役でもあった。

維新前後、代官の落胤で上国与人という島役人では最高位にあった基俊良(もとい・しゅんりょう)とはいかなる人物だったか。その一面がうかがい知れるのは島唄「俊良主節」だ。

ゝ泣くな嘆くな金久の俊良主
妻(とぅじ)ぬみの加那や
運命(ちもり)ありょてぃど
苦潮(にがしゅ)やみしょしゃんど

「奥道のぼせ節」「ふなぐら節」として知られたこの唄が題名を変えたのは、俊良の新妻・みの加那が塩浜沖で貝とりに夢中になって溺死。悲しみに沈む俊良主を慰めようと島人が歌詞を変え「ふなぐら節」にのせたためだという(仲曽根幸市『しまうた百話』)。

ほどなく俊良主は後妻に、みの加那の妹・すえ加那を迎えるが、いつまでたっても替え歌が続くため、歌い手に十銭銀貨をつかませたら、今度は「銀どろ節」として流行したという。気のいい俊良主の困惑の表情が浮かぶようだが、よほど好好爺然とした親しみのもてる人物だったのだろう。

だが明治が幕開くと、政治家としての違った足跡も浮かぶ。黒糖専売制の終焉を前に頻繁に県庁や大蔵省に出向き、問題解決に奔走する。それは「島民代表」の立場を取りながら、むしろ既得権益を死守しようとする豪農代表としての行動原理である。

広大な私領地を抱えながら、新政府の方針によって当時なお九千人もいた島のヤンチュ(農奴)解放が目前に迫り、特権層としての先行きが揺らぎ始めたためだろう。

当時の俊良の一面の胸中が、明治二十六年に面談した笹森儀助翁の筆で書き留められている。

「旧藩制は圧政に似たるも、実に一家のごとく親切に島民を撫育せる故、今の如く乱れず」。

奄美に県政不信が高まる時代の中、俊良主はなお体制寄りである。

明治二十二年、国民待望の憲法の発布と第一回衆議院議員選挙が行われた。この初の国政選挙で俊良は奄美初の代議士になった。

だが我が世の春は続かない。三年後の選挙では龍郷中勝出身の内務官僚・大島信に敗北する。二つの政党がぶつかりあった全国的にも激しい選挙は沖永良部島で流血の惨事まで引き起こした。

奄美の保守二分の過激戦はこの時に始まっていたともいえる。

与人(よひと)と呼ぶ島役人最高位から初の国会議員になった基俊良。
琉装姿の写真は明治2年、文部省の招きで上京の際、記念にと虎ノ門の写真館で撮ったものだという。

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