No.7 ペテルブルクの塩豚
島津軍の南島侵攻の戦闘記録 『琉球軍記』に徳之島での掟兄弟の奮闘が描かれている。
攻め来る島津軍に対して兄弟は島びとたちに「家ごとに粟の粥をたぎらかし大和人の脛をヤケドさせる為に坂道に流せ」と命じている。
これを土着信仰の呪術的行為という解釈があるが、例の真田幸村は上田城に立てこもっての防衛戦で、やはり城壁をよじのぼる敵軍に沸騰した粟を流している。それは古典的な戦術であったかもしれない。
まことに暴論だが「たぎらかした粟粥」というのはあるいはブタ用の残飯だった可能性はないか。そうしたことを想起させられたのは、沖縄の戦後史を読んでいて米軍から出る残飯の半分をブタでなく人間が食べていたというほろ苦い記述を目にしたためだ。「残飯からジョートウが出たさー」と沖縄の古老。時に残飯はブタと人の境目を失う。
さて島津軍の戦利品として海を渡った島豚のその後である。
あるいはそれは種族の長い流浪の歴史の一歩であったかもしれない。
この国では江戸時代も獣肉食はタブーだった。だが大名たちの一部はどうやら「薬」と称して食べていたようだ。そうした食風が最初に広がったのは、南島から島豚を持ち込んだ薩摩だったろうか。
文政二年(一八二七)、農学者・佐藤信淵が書いた 『経済要録』によると「薩摩藩江戸邸で飼われているブタはその味、殊更上品。普及すべし」と奨励している。また加茂儀一 『日本畜産史』には「一八五四年ごろ、高輪の薩摩屋敷では中間(使用人)らが残飯でブタを飼い、これを屠殺してその肉を食い、そればかりでなく売ってもいた」と驚くべき実態が記されている。
将軍家膝下の江戸に「禁断の味」は生体で持ち込まれていて、豚肉に慣れ親しんでいた薩摩武士たちは、その食習慣を手放せなかった。
鹿児島でのブタの普及は主に南薩地域から広まったと言われている。明治三十五年の牧畜雑誌に「鹿児島県川辺郡養豚状況」がリポートされていて、大島、熊毛に次ぎ「養豚事業の盛んなるは枕崎および加世田」と記されている。港やイモ栽培地と関連があるのか。太ったブタは南薩を中心に肥育され鹿児島、長崎に送り出されている。
注目すべきは長崎への出荷で、冬場に屠畜され塩蔵された両脚は、長崎の燻製業者に売り、ハムとして海外輸出された。だが一時年間三十トン近くにのぼった出荷量もほどなくロシア領での関税引き上げにあいジリ貧化、衰退の道を辿ったという。
船乗りだった薩摩の少年ゴンザが嵐にあって漂流、カムチャツカに流れ着いたのは亨保十四年(一七二九年)だという。ゴンザは聡明だったのだろう。やがて移送されたロシア旧都サンクト・ペテルブルクで女帝アンナに歓待され、日本語学校の教師として生きることになる。
そのゴンザの功績である 『新露日辞典』に「ハム」が「塩豚」と訳されている。鎖国時代、遠い異境の地に生きるしかなかった薩摩の領民はハムを口にして、はるかなふるさとの塩豚を思い起こしたのだろう。日本開国までまだ一世紀以上を待たなければならなかった。
ヨーロッパでは豚肉の保存法としてハム、ソーセージの加工が発達した(写真はイタリア・システィーナの名店「チェスキ」のカタログ)
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