見出し画像

No.12 島役人たちの系譜

奄美では古くは琉球系の人々が支配層として権勢を誇った。一六〇九年の島津侵攻後、当初こそ旧慣に従ったが徐々に遠ざけられ、やがて徳川後半期になると薩摩系の人々が島役人の重要ポストを占めた。

薩摩系とは二、三年交替で海を渡ってやってくる、大和ガナシ(薩摩藩士)の落胤である。男盛りの藩士たちの多くが、身の回りの世話に差し出された島娘を懇ろにし、子を儲けた。娘を差し出す側は島唄ではいかにも悲劇風だが、一族の糧口として進んで、という立場もありえただろう。

その子孫は時代とともに増えていく。藩側も彼らを無碍に棄て置けなかった。初学を授け一定の身分保障をした。中から抜きんでた子弟が輩出され、農奴経営で太った豪農とともに島の支配層を形作った。

「島ブク(奉公)三年、江戸三日」という諺が当時あったという。物入りな江戸藩邸詰めは三日で身上を潰したが、逆に辺鄙な奄美赴任は三年も勤めると倉が建つ、というのである。従って一度ならず三度も離島赴任を遂げた役人もいる。

四本庄蔵は文政八(一八二五)年、喜界島代官として赴任し、ほどなく大島代官になった。在任中、瀬戸内町管鈍出身の「あり女」との間に出来たのが奄美第一号の国会議員になった基俊良(もとい・しゅんりょう、一八二六〜一九〇四年)である。

俊良はそうした血筋と藩元での教育によって立身出世を遂げ、島役人では最高位、今日の首長役の与人になった。そして島を代表する人物として藩元での慶事などに「上国与人」として参列する。

その俊良主(しゅ=島では敬愛を込めてそう呼ぶ)が上国の際、塩豚を持参したか判然としないが、手土産にしたろうことは察しがつく。そんな推量が出てしまうのは、京で「ブタ肉外交」を展開した桂久武は幕末、大和浜に鉄砲隊を率いて駐留していた。俊良主は久武だけでなく、四本本家やその他の藩重鎮にも顔見知りが多く、焼酎とブタ肉はその何度かに伴われたに違いない。

俊良主の上国(県)の幾度かで郷土史家が熱い視線を向けるのは「明治五年」である。

時代の一新を告げる明治維新が成り、ようやくその恩恵が島々にも及ぼうかという明治五年夏、大和浜の与人長老の太三和良(ふとり・みわよし)と俊良主は島民代表(?)として黒糖の販売問題で藩改め県役人らに伴われ上県した。

そこでは県の斡旋で黒糖売買は旧来の専売を廃し勝手売買に改められることになり、県の傀儡商社「大島商社」と基、太の両代表との契約という形をとることになる。

しかし建前上は近代契約という手法ながら、実際は鹿児島有力商人でつくる大島商社が一手に黒糖を売買し、島民が使う生活物資もまた商社を通してのみ買う、旧来と変わらぬものだった。

かくて島民の不満が沸点に達し、洋行帰りの青年革命児・丸田南里を旗手とする島ぐるみの勝手売買運動が島を覆った。

だが最近、俊良主らが県側に幾つかの要求を呑ませたことから功労者との新説も登場している。過去をどういう視点から検証するか。「歴史上の人物」評価は陽のうつろいで伸び縮みする影のように心変わりしやすい。

薩摩藩の奄美からの黒糖上納は「島民が一粒舐めても死罪」と言い伝えられるほど厳格を極め、島役人を動員して抜け荷防止に当たった(『南島雑話』)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?