No.24 困民党とミチューリン
秩父と奄美の類似を求めれば、「絹織物」と「レジスタンス」だろうか。
明治十七年(一八八四年)、埼玉県秩父郡で起きた人民蜂起は、日本近代史上の象徴的事件となった。「東洋のアイルランド」と人権家らが憤慨した、奄美の砂糖勝手売買運動から遅れること七年である。
江戸期に一代絹織物産地になった秩父は、明治維新による横浜開港で生糸が一躍、わが国を代表する輸出主要品になったことで脚光を浴び、世界経済の一角に組み込まれる。
しかし、生糸の隆盛はほどなく世界恐慌の予期せぬ事態に沈む。松方デフレも加わって農家は借金苦に困窮する。折から板垣退助らの自由民権運動が巻き起こり、連動するように「秩父困民党」が結成され、農民五千人が刀剣を手に高利貸や役所を襲撃。明治政府は軍隊を投入し、大弾圧で壊滅に追い込むが、自由を叫んで立ち上がった秩父農民の勇気に国民は喝采した。
養豚経験のない俊太郎が関根に託した島ブタは、秩父の地で育てられることになった。
やがて、この地で晩年を過ごすことになる俊太郎に古民家を紹介、移住の下拵えをしたのも関根であるが、二人を結び合わせたのは日本有機農業研究会だった。
昭和四十六年に農林中金常務理事だった、一楽照雄の提唱で創設された会は、「食」を媒介に都市住民と農民との連帯を促す、先駆性が注目を集めていた。
このころ、つまり昭和四十年代末から、俊太郎は東京・駒込で一般住民を対象に市民大学を主宰し、自らも教壇に立っていたが、有農研で出会った養豚農家の関根を講師に招いたことが交流を深めることになった。
関根は当時、三十年がかりで育てあげた、体躯が大きく黒毛の「秩父黒豚」を生み出したばかりだった。その技術確立に「遠隔交雑」の実験候補地を探していた。
遠隔交雑とは、「離れた地の種同士を掛け合わせると血統が交わりにくくなる」という、かつて共産圏で一世を風靡した科学者ミチューリンの農法理論である。関根はこのころ北大卒でミチューリン生物学の推奨者・三沢穣に傾倒していて、その著書『知られざる雑種のつくり方』(農文協)で沖縄アーグと奄美の島ブタがあることを知り、その出会いへの夢を膨らませていた。
俊太郎との出会いはそうした課題を解決へと向かわせる契機になった。関根が勇んで奄美に足を運んだ様子が目に浮かぶ。やがて島ブタの一つがいを基礎に、戻し交配で島ブタの繁殖が試みられる一方、関根が育てた「秩父黒豚」と島ブタを掛け合わせた「秩父ポニーブラック」が誕生する。
その粗食性、耐病性に富んで、脂質の代謝よく肉が美味な新しいブタは消費団体が注目、脚光を浴びることになった。
島ブタを新天地に託した俊太郎の思い。だがその願いはやがて、些細な齟齬から大きな亀裂になって跳ね返ることになる。
関根が追いかけていたのは、自らの理想ブタの確立だった。従って島ブタ移入はその手段でしかなかった。島を逃れ安息の地をめざす旅もまた茨道に過ぎなかった。
もう一つ確かめねばならぬのは、海を渡って秩父に来た島ブタは本当に「キシウワー」だったのかという点である。関根のもとに一つがいを送り出した俊太郎の実弟・俊良氏に確認すると、まず「喜瀬豚という名は大熊、芦徳などと同様、子ブタ供給地の代表的なブランド名の一つ」と解説の上、「あの頃(自分の農場では)島の各地から子ブタを集めていた。従って喜瀬豚だったかどうかと言われても」と語るのである。
俊太郎は最後の島豚のつがいを秩父の飼育農家に託し、武甲山山麓で新たな一歩が始まった。自らも都心生活に見切りをつけ、秩父市内の古民家を借り、晩年を過ごした。その庭先からうっすら雪帽子の武甲山が見えた。
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