No.3 コメとブタの試練道
あえて「南島を除く」と断った上でだが、日本にブタが伝わったのは弥生時代、水稲稲作とともにと言われている。愛知県朝日遺跡の調査で、一帯で二百年間に五〜六千頭が飼育、食されたという推計値がある。
弥生ブタがどう飼育されていたかは不明だが、奈良時代に入るとブタ情報は激減し、平安期以降はプツリ途切れる。あるいはそれは言われるところの殺生禁断の仏教思想の普及と軌を一にするものだろうか。
仏教説には異論もある。『食からみた日本史』の著者高木和男は「殺生禁止は輸入された貴重な動物を朝廷が保護するため仏教思想を援用しただけ」と書いている。
いずれにしろ再びブタが日本の歴史に登場するのは江戸時代からだ。「日本ブタ史」は約千年の空白期を持つ。
戦後の日本農業が稲作を衰退させたのは「弥生ブタの宿命と同様の道程だ」という解釈がある。
中国でブタの飼育が堆肥作りを盛んにし、稲作地帯を発展させた、という話はすでにふれた。
加えてブタを飼うことはそうした農業・食料に加え、祭祀儀礼など漢人の日常生活そのものに深く組み込まれ、時代とともに濃密になっていく。
「ブタなくして生活なし」が隣人たちの一致した結論だったし、今も肉類消費の八割を占めるブタの家畜としての重要性は変わらない。
だが一方の弥生ブタは中国ブタとは反対の道を辿る。ブタは日本列島に住む当時の人々にとって、すでに食料以外に価値を見いだせない資源になっていたと言うのである。
従ってそのことが新たな宗教的観念(仏教)の影響でブタを飼うことへのマイナス要因として働くと、「放棄の道を選択せざるをえない一つの要因」(西谷大 『ブタとコメ』)になっていく。
一方、稲作はどうか。弥生時代、コメの意味は食料としてだけではなかった。
コメは交換財、税などの機能に加え、穀霊宿る神聖なものとして重要視され、この国の文化に多様な儀式性を生み出した。さらに水田から魚を採り二毛作で大麦小麦を収穫し畦畔でマメ類も育てた。
稲作とはそうした「複合生活文化」にほかならない。
だが戦後農業はそうした稲作が包み持つ豊かさを顧みず、水田のさまざまな恵みを放棄しコメの増産、食料としてのコメへ特化の道をひた走った。
そうした経緯を踏まえて西谷大は「現在のコメは弥生時代以降のブタが辿った同じ道を選んでしまった」と結論づけている。
田園の面影残す奄美大島・龍郷町秋名。コメづくり盛んなりしころの古老たちの話では、春三月の田植えからやがて梅雨時の稲の穂ばらみの季節になるころ、シマびとたちは歌舞音曲を休止し、こもりがちな日々を送るものだったという。それは穂を娠ませるニャーダマ(稲魂)が驚いて、逃げ去らぬための配慮なのだという。
自然に生かされた謙虚な暮らしぶりを感じさせる話だが、戦後一段とこの国は物事を経済的価値に特化せずにおかない、方向へ突き進んできた。そして今、本当の豊かさとはと悩み、自問自答し始めている。
黄金色に輝く実り田。豚の飼育で堆肥づくりが進み、稲作を発展させたという説さえある。
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