No.9 将軍をうならせた塩ブタ
幕末、横浜の租界地で「牛鍋屋」が登場すると全国に流行した。福沢論吉はこのころ大阪・緒方塾で学んでいたが、近くの牛鍋屋店主からブタの屠殺を頼まれ、賃料代わりに頭部をもらった、と自伝にある。「洋医の卵」は好んで動物の解剖をする、という風聞を聞いた店主が依頼したのだろう。肉屋が肉を捌けぬという不思議は、それを嫌悪する時代風潮がいぜん根強かったせいだ。
動物の屠畜は江戸期、「穢多(えた)」と呼ばれた特殊な人々が行うものとして、彼らは賤民視され、故なき差別に苦しんできた。幸い仏教思想が強固に普及しなかった奄美・沖縄は類災を免れたが、士農工商の身分制度と賎民思想の二重差別に苦悩し続けた人々は少なくない。その深い精神的刻印は戦後も影を落とし続ける。
しかしそうした人種制度の頂点にあった人物がブタ肉を好んで食べていた、という呆れるしかない話がある。
「最後の将軍」徳川慶喜(とくがわ・よしのぶ、一八三七〜一九一三年)は御家・水戸斉昭の七男で、幼年から聡明の声高かった。一時、一橋家の養子となり将軍侯補に浮上するも大老伊井直弼に圧殺され隠居。政治的に復活を遂げたのは開国問題でゆれる文久二年で、京都において将軍後見職として幕府と朝廷の間を老獪に飛び回り、したたかな政治的手腕を発揮している。
しかしそうした明敏さ故に変わり身も早く鳥羽伏見の戦いでは見方の将兵を捨て去って脱出。「大将の敵前逃亡」の非難の中、反幕府軍に恭順謹慎し死罪を免れている。
その慶喜が無類のブタ好きで、一橋家からもじり「豚一(ぶたいち)様」と呼ばれていた。とにかく塩ブタを食べていれば上機嫌だったという。
その様子が池田屋事件など当時騒然としていた京都で公武合体に奔走していた薩摩藩家老・小松帯刀の手紙からうかがえる。
小松によると、「一橋公より豚肉たびたび御所望」されたので差し上げたところ、さらに三度も「分けてくれぬか」とねだられ、不承不承、全部差し出したという。
ところが豚一様の虫のいい催促はそれにとどまらず、使者をよこしてさらにブタくれコール。呆れ果てた小松は「(大名というものは)不勘弁之者(わからずや)」と郷里に書き送っている。
慶喜は「禁断の味」になぜ魅了されたか。この京都での出来事を逆上る二十年前、薩摩藩主島津斉彬が慶喜の父で水戸藩主・徳川斉昭と幕政改革を目指していて、そうした交流の中で盛んに塩ブタを贈っていた。当時父親の元にいた慶喜はその肉の味に染まっていったのではないか。
そして私の想像では琉球豚とは奄美の島豚に他ならず、島民が丹精込めた貴重な食料が武士たちの主な役目を果たしていたのである。
維新後、静岡で蟄居の身となった慶喜は側室との間に五男八女をもうけた。だが夭逝した子を含めると実際は男十人女十一人にも及ぶという。明治元年の謹慎から五十一歳で最後の子を生む二十年間、ひたすら子づくりに励んでいたととになる。なんとも凄まじい人生ではある。晩年、最後の将軍にあの塩ブタの味が蘇ることがあったろうか。
塩豚は保存食として奄美では正月に解体したものを夏まで食した。(富樫精肉店ブログ「野菜たっぷり塩豚鍋の作り方」から)
「豚一様」のあだ名まであった徳川慶喜。
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