No.19 戦場をさまよう島豚
昭和二十年四月一日、米軍は沖縄本島に上陸した。「本土の防波堤」と位置づける日本軍は将兵を大動員、加えて現地召集兵や女学生、健康な男女の大半を看護婦、衛生要員として駆り出してこれに対抗した。
だが米軍の兵力は日本勢を圧倒、空海から砲煙弾雨を惜しげもなく打ち込み、「鉄の暴風」が沖縄の地形さえ一変させた。
戦争による犠牲者は日本軍将兵十一万人、沖縄住民九万四千人に達し、米軍もまた一万二千人の兵士が屍となった。
沖縄の同胞を、集団自決など悲劇的な死に追いやった最高指揮官は第三二軍司令官の牛島満中将である。牛島は薩摩藩士を祖とする軍人一家に生まれ、少年期を鹿児島で送った。極端に無口な性格で、一度は陸大のロ頭試問に失敗。二度目に学業抜群で重来を期し、卒業後は天保銭組(陸大出身者)として主に教育畑を歩んでいる。
その無ロな牛島が脚光を浴びたのは、昭和十二年の中国・南京城総攻撃においてである。牛島は旅団長として歩兵第二三連隊に攻撃命令を下すが、「古来、武勇を誇る薩隅、三州健児の意気を示すはまさにこの時にあり。チェスト行けっ」と訓示した。
チェスト行け、は薩摩武士たちの乾坤一擲の掛け声である。その言葉に奮い立って、兵士たちはわずか二時間で南京城を占領した。このため彼の旅団は「チェスト部隊」と呼ばれる。
「議論畢竟世に功なし」。牛島が座右の銘とした、心服する西郷隆盛の言葉である。理屈を言う輩は成功しない、というのだ。そこには「議を言うな」「即行動」という、散るを美学とする武士、薩摩人の風土的観念が充満している。
沖縄戦で牛島は敗北覚悟で防衛戦を口をつぐんで戦い抜き、自らは早々と自決する。そうした指揮官の狂気、加えれば薩摩的武人精神が、沖縄びとを巻き添えにしたというそしりは免れぬだろう。
戦争の惨禍は人だけにとどまらない。王国を富ませ、繁栄に導いた島豚アグーにも明暗の節目になった。
沖縄戦が本格化すると、島民たちは集落を棄て、山奥やガマに身を潜める。当然、豚舎は敵弾の標的になるが、その前に日本軍の貴重な食料として徴され、飢えた軍人たちの胃袋に収まった。その結果、『琉球農連五○年史』によると、戦前の一九四○年代に十万頭を数えた沖縄の保育頭数は、終戦時わずか二千頭であったという。
鬼畜米英。だが沖縄びとの証言によれば、彼らの前に現れた青い目の兵士たちは、一部を除けば騎士道精神に富み、優しく親切だった。
「あれたち(米兵)は牛もヤギも豚も食べないサー。自分の食料あるんだから。沖縄のものに手を出さなかったよ。出したのは日本兵だけ」と言った証言が 『豚と沖縄独立』に書き留められている。
そして彼ら米軍が豚好きな沖縄びとに配給を始めたのが豚缶「ポーク・ランチョン・ミート」。ソーミン(素麺)さえ手に入らない時代、豚缶をさまざまな素材に混ぜ合わせるチャンプルーが「最高の味だったさ」と古老たちは口を揃える。「ゴーヤー・チャンプルー」はあの夏の焼け跡の味として生まれ、いまや沖縄料理の代表的ヘルシー・グルメになった。
戦場化で飢えた沖縄県民を驚かせたのは、米軍が大量に持ち込んだ缶詰類で、中には「ポーク・ランチョン・ミート」があって、豚好きの沖縄びとに兵士たちは気前よく振舞った。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?