NO.11 塩ブタに込めた算用
将軍膝下の江戸薩摩藩邸でしきりにブタ肉が食され、京においても小松帯刀、桂久武が接待や会食に塩漬ブタを供していた。
こうした肉食ご法度の時代の頻繁なブタ肉の出入は、それを支える「安定的供給システム」が存在していたことをうかがわせる。
薩摩藩士が落手したブタ肉は、恐らく奄美の島役人が献上接待、あるいは賄賂として供したものがその大半ではないか。このころ、島役人への登用・累進で、藩役人への袖の下の人気ベスト4は「砂糖、反物、焼酎、塩ブタ」だったという。
藩財政の窮乏下、島の焼酎で杯を傾けつつ、塩ブタで舌鼓を打つのが薩摩武士には最高のグルメだったろう。
「閉ざされた世界」という離島認識は大いに改めねばならない。
例えば、である。与論島立長の猿渡家の祖は寛政五年(一七九三年)、沖永良部代官所・検査役に赴任した猿渡定右衛門である。定右衛門は在任三年の間に管轄する与論島の女性との間に子をもうけている。そして六十六年の歳月を隔ててその孫、猿渡彦左衛門が再び沖永良部代官として島に現れる。
かくして猿渡鹿児島本家と与論島一族の交流が本格化するが、その往復書簡集「猿渡文書」を読むと、両家の慶事のたび頻繁に贈答品がやりとりされている。ある時は与論島から砂糖とともに「塩婦多肉五斤」が贈られ、時をさほど経ず焼酎三沸と「塩婦多肉二十三斤」が贈られた。贈答はまた一方的ではない。鹿児島からは貴重な壷や茶、時には「鉄砲一丁」といった返礼さえあった。
こうした物流は当然、物の価格、世の動静といった情報の伝播も伴ったろう。
徳之島最後の代官となった新納源佐衛門は慶応三年(一八六七年)、明くれば明治という世情騒然の時代に着任した。その「徳之島渡海日記」にやはり塩ブタが登場する。
「今日より出役。近藤七郎佐衛門(前代官)豚片平(半身)五盃徳利一つ到来の事。その外、仮屋銘々(役人たちから)豚五斤位ずつ」
就任初日に同僚たちからブタ肉をたんまりもらって手に負えなかったのだろう。四月と五月、船便で自宅や知人宅に大量の塩ブタとともに反物、焼酎を届けている。
いくつかの文書だけでも奄美在動の藩役人に対する塩ブタの提供は相当量に上ったことが推測できる。大和浜方国直村の島役人・前仁志の備忘録でも、薩摩役人の赴任、離任の際、あるいは節句などに焼酎とともにブタ肉を届けた、とある。また前任の藩役人にも鹿児島にたびたび塩ブタを送り出し、一度に数十キロ単位に上ったという。
島豚産地・奄美から送り出された過剰な進呈は薩摩武士たちの手を経て、幕末の国事の前線、革命前夜の沸騰の胃袋に収まっていこととになる。
贈答にはもらい手の感激の分、送り手の算用がある。封建下、島の百姓が衆を抜け出るには島役人への登用しかなかった。文字通り手塩の塩ブタを送り出した期待は、それに見合うものだったかどうか。今も島では三月に島を離れる役人、教員に餞別品を贈る習いがある。だが、加計呂麻島で貴重なソテツ鉢を贈られた役人が、重い盆栽を嫌い船から海に沈めたのを知人が目撃している。必ずしも期待は果実として跳ね返らない。
京の政治動静をにらんで西郷隆盛らが詰めた薩摩藩の伏見屋敷跡。一帯は銘酒の里として知られ、跡地は清酒工場になっていた。
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