No.25 豚尿とクロレラ探求
「雪降る肥前では子は育たん」。
与論島を悪疫と旱魃が襲い、九州産炭地の集団移住計画が持ち上がった明治三十年、ユンヌの人々は真剣にそう悩んだという。
ブタは鼻炎を起こしやすく風邪をひきやすい。冬の寒さが何より苦手である。雪のない南国・奄美でも、真冬は寒さに弱い子ブタを守るためストーブが用いられるほどである。待望の島ブタを迎えて昭和六十一年、関根が新たに武甲山麓に拓いた実験農場は標高三五〇メートル。冬になると数日ながらマイナス十〇度に冷え込み、霜柱が立つ。
そんな寒冷地で島豚は育つのか。だが心配をよそに関根は孤軍奮闘する。俊良氏から送られた一つがいを交配し、全身黒毛のブタを選抜。二系統で戻し交配を重ね、やがて四代目まで辿り着く。
私は「関根」という人物に興味を抱いた。実験モデル農場、ミチューリン農法、クロレラ研究家…。死語に近い世界を、なおも彷徨うその旺盛さに「憑かれ人」を見る思いだった。
上京の機会を捉え晩秋の一日、池袋から西武秩父線に乗った。盆地に近づくにつれ、外気は低下し、車窓は鮮やかな紅葉を映し出すようになった。
関根は秩父のかつての街道筋・大野原の旅籠屋に大正十五年一月十五日に生まれた。したがって「一五郎」なのだという。
大学を出ると秩父に帰り、中学校の理科教師になった。学校への行き帰り、川で銀鱗輝く鱒の美しい姿に感動。昭和二十六年、今度は東大農学部水産学科に国内留学、故郷・荒川の川魚とその餌の藻類研究を始めた。さらに病膏肓に入り、教員を辞して家業の農業とともに、クロレラの培養研究に当たった。昭和三十三年のころだという。
その生物研究家がなぜ島ブタと出会うのか、もう少し話を継ぐしかない。
クロレラは地球上、最も繁殖率の高い生物の一つとされ、しかも必須アミノ酸の大部分を含み、タンパクも多く、「完全栄養食」として今も多くの在野研究家を魅了し続ける、不思議な生物である。
一五郎翁は自宅に秩父生物研究所を設立して研究に没頭、昭和四十四年、「光合成細菌クロレラによる二次的処理法」が特許と科学技術長官賞を得る。翁の得意や知るべし、である。
その研究、平たく言えば、ブタの尿でクロレラを培養浄化、飲料可能な水にしてブタに供給し、糞尿処理の悩みを解消する、リサイクルの仕組みを築こうという企みである。一五郎翁はそのクロレラ培養に適した、ブタの尿を求めて秩父黒豚にたどり着き、さらに最強の島ブタを組み込んだ秩父ポニー・ブラックを誕生させる。
つまり一五郎翁が欲しがっていたのは島ブタの尿だった、とも言える。言い方を変えれば「畜産リサイクルシステムの確立」である。
だが、夢は実るものとは限らない。
秩父駅で俊太郎の夫人俊子さんと待ち合わせ、その案内で一五郎翁を訪ねた。何度か声を掛けたが、家中から返事はなく、諦めかけた途端、離れから人の気配が。
「私が関根です。ええ、変人です。馬鹿だって言う人もいるくらいですから」。
のっけから一五郎翁は突飛である。最近、足が悪く、耳が遠いのが悩みだという。だが八十一歳の年齢の割に肌艶あって饒舌だった。分厚い資料を手元に、説明に次第に熱気が加わった。私は翁の光る眼の先を見ていた。
島豚には秩父もまた安住の地ではなかった。養豚農家・関根一五郎はクロレラ菌研究にのめり込んで行き、島豚保存は眼中から消えていた。
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