No.29 奇跡の命脈、今に
「キシトン」。
わが耳を疑った。
宮城県米山町の養豚農家、久保勇との会話で、不思議な東北弁を聞いた。最初、全く気づかなかったのだが、何度か久保が口にするうち、脈絡からそれは「キシワー」、つまり奄美語で言う、喜瀬豚を指しているのだとわかった。
久保は夢見るような目で、「島ブタの故郷、喜瀬を訪ねてみたい」と言った。私は久保が喜瀬を「島ブタの発祥地」と解していることに気づいた。確かに島ブタの里ではあったが、それは島の代表的な子ブタ供給地の一つだ、と告げると得心した表情になった。
「鹿児島までは行ったども、それから南は…」。やはり一度はその島ブタの里を訪ねたいのだと繰り返した。
不思議な思いだった。すでに島びとでも喜瀬豚を忘れ、言葉さえ消えつつある。その喜瀬が「キセ」ではなく、奄美語の「キシ」として東北の地に伝わり生きているのだ。
「仙台黒豚会」を久保らが立ち上げたのは平成二年。「大地を守る会」に賛同する七戸の有機農家が、産地運動の一環として「おいしく健康なブタづくり」を掲げ活動を開始した。
そのころ秩父の一五郎翁がテレビ番組に出演し、光合成菌の農業における有用性を強調。その話がアグリバイオに取り組んでいた彼らの耳に入り、ほどなく「大地」を通して繋がることになった。そして島ブタとの出会いになった。
それにしても養豚の大規模化進む地域で、なぜ効率の悪い島ブタなのか。「おいしいブタ」への彼らの飽くなき探求の結果だが、久保は「島ブタの足間節の柔らかさにまず驚いた」という。間節の柔軟性は改良の手が加えられなかった、近原種の証しである。山野を縦横に駆け巡るイノシシは、足間節がしなやかなればこそである。間節、すなわち骨格の丈夫なブタは健康で肉づきが良い、というのは確かに理屈である。「これは使える。私たちが求める理想ブタだ」と久保は直感したと言う。
だが、少子で生育期間が長く、密飼いを避け餌代を惜しまない飼育法は当然、高コストになる。販売業者の理解が得られず、納品先のない島ブタは最初、せいぜい生産者仲間の胃袋に収まる程度だったという。
そうした中で久保は石巻市で精肉事業を展開する「リャンド・マツウラ」の社長・松浦長三郎に出会う。十五歳で北海道にわたり修行、二十八歳で独立した精肉のプロは、久保の懇請を受け、その貴重な肉質の将来性を見込んで、高値を承知で一手に引き取る決断をする。
松浦は「正直、採算は採れない。だが今、止めると貴重な島ブタが滅んでしまう」と語り、さらに言葉を継いだ。「肉、脂身とも目詰まりがなく、肌理細かい島ブタはイベリコ豚よりうまい。必ずコメ、牛タンに次ぐ宮城の名産品になる日が来る」。
「幻の島豚」と命名された島ブタは今、石巻市から東へ約四十分、降雪なく温暖な、牡鹿半島の久保の農場で母ブタ三十頭をベースに五百頭が飼育されている。そして丸々と太った島ブタは、松浦の石巻の近代的な精肉工場から仙台、東京のホテル、レストランに送り出されていく。そのシャブシャブ肉を、湯気の中から取り出して口にした都会のグルメたちは、決まって「こんな美味しいブタがあったのか」と絶賛する。
奄美を出た「キシワー」を回る私の旅は、ようやく終わりが近づいてきた。宮城から帰って数日後、松浦から「ぜひ奄美の人々に食べて欲しい」と丁寧にロースからバラ肉までが届いた。仲間を誘い食べてみたが、シソ科のエゴマで仕上げた肉は驚くほど美味い。食した一同は何より、島ブタの子孫が、はるか遠い東北の地に生きていたことに感銘の様子だった。広田哲宏は「奇跡というしかない」と唸った。
舌鼓を打ちながら、私は考えた。「マッサタャー」。辿り着いた島ブタは果たして島の古老たちが絶賛した、あの時代の味だろうか。食に寄せる人間の執念はどこからくるのか。加えて島ブタとは何だろう。再びまた、すべてが解けない謎となり、深い霧に閉ざされてゆく。
俊太郎から奄美の島ブタを引き継いだ、秩父の関根一五郎翁がさる十四日逝去されました。ここに謹んでご報告申し上げます。
島豚販売に力を入れる精肉卸販売の「リャンド・マツウラ」。松浦長三郎社長は「なんといっても脂身が美味い」と絶賛する。たしかに訪ねたその店頭でも、主婦が真っ先に島豚に手を伸ばしていた。いま島豚は「宮城の味」として東北にその安住の地を得つつある。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?