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No.26 秩父から東北への流転

終戦から十年が過ぎた頃、「鹿児島黒豚」に一大ブームが起きた。食糧難から抜け出し、高度経済成長が始まった時代である。

美味さと品質の良さが口づてに広まると、枕崎方面から鉄路で運ばれる黒豚は東京市場で飛ぶように売れ、トンカツなどに化け、都会人の胃袋におさまった。昭和二十四年の出荷頭数二万頭は九年後、十四万頭激増。「黒豚列車」が鹿児島ー東京をピストン運行した。

「畜産王国の復活」。だれもが黒豚人気を不滅と信じ、停滞気味の鹿児島農業の牽引役と期待を寄せる。しかしそれは一過性のブームだった。その後の急速な高度成長は「より早く、より安い」豚肉供給を強い、経済効率の悪い鹿児島黒豚をあっという間に主役の座から突き落とした。

従って今日の「鹿児島黒豚ブーム」はバブル以降の第二次ブームということになる。

突然の「黒豚ブーム」が秩父の一五郎翁の身辺にも複雑な潮流を生んだ。

秩父ポニーブラックにまず注目したのが牛乳の安全問題に一石を投じた自然農法家で有農研常任理事だった故・高松修だ。

「奄美で島豚を見て、日本養豚のルーツを得心できた感動から二十年。腹がたるみ、耳が下がった独特の風貌は忘れられません。この豚なら濃厚飼料を使わず、残飯や薩摩芋で飼える豚だと感じたからです。それから安い濃厚飼料全盛になり、今更島豚でも、という状況が続いてきました。ところが風向きが変わったのです。物騒な遺伝子組み換え作物を使わず、粗飼料で飼える秩父黒豚が脚光を浴びる時代が近づいているのです」。

高松は一五郎翁への手紙で、その時代変化と秩父ポニーブラックの有望性を力説、「安全推奨豚」として「大地を守る会」に繋ぎ、やがて全頭が「大地」に買い取られる。

「食の安全」を追求する「大地」は、戦後の共同購買運動の流れを汲み、今日では生産者二千五百人、市民八万人を繋ぐ日本を代表する消費者団体だ。共同購入にとどまらず地域興し、市民運動との交流など多様な側面も持つ。一五郎翁のブタはその「大地」の目玉商品となった。

一方、二次ブームに沸く鹿児島黒豚産地。より本物に近づこうと、ルーツとしての島ブタを見直す動きが強まった。その中心にいたのが元鹿児島中央家畜保健所長で鹿児島養豚の生き字引、横山豪郎である。横山は「奄美島豚保存会」を立ち上げ、島ブタの特性を継ぐブタを探し始めた。その中で秩父・一五郎翁の情報を得る。

「基先生(俊太郎)が秩父に運んだのは、瀬戸内町のブタから島豚の特質濃いものを選んだもの。先生にお会いしたら歴史ある島豚が途絶えるのは忍びない、できれば島に帰すのが一番と言われた。志を固め秩父に関根さんを訪ね分けてほしいと懇請したが、何百万円とか言われ、余裕がなく断念した」。

すでに高齢で一線を引いた横山だが、今でも残念そうに当時を振り返る。

だが、奄美各地から島ブタの特性濃いものを買い集め、徳之島の農家と契約し大手スーパーと結んだ横山のその後の足取り、加えて今日、島ブタを辛うじて飼育販売する国分の農家の現状。幾つかを繋ぎ合わせて考えると、果たして横山は「島豚を伝え残そう」としてきたのか、疑問符もつきまとう。

奄美の島豚は平成になってのグルメブームで何度か名声蘇る。鹿児島の民放が「鹿児島黒ブタのルーツ」と紹介、全国紙が秩父での養豚実態を伝えた。平成九年八月、読売新聞の「幻の島豚、埼玉で復元」の記事に俊太郎が「保存の機運を盛り上げ、奄美で復活してほしい」とラスト・メッセージを送っている。

だがそれから二年後、一五郎翁の元で飼育されていた島ブタが東北・宮城の地に移ることになる。高齢やもろもろで翁が養豚を断念したのだ。

一五郎の養豚放棄で島豚は再び流浪し、辿り着いたのは米どころ宮城だった(杜の都・仙台駅)


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