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No.16 近代彫刻の足取り

日本の近代美術は、海外に渡った一握の若者たちによって産声を上げた。その近代彫刻史を俊太郎が東京谷中の地域誌「谷根千(やねせん)」に書いている。

「ニューヨークの美術学校、アート・リーグの学校食堂で荻原守衛(碌山)と戸張亀吉の二人は一杯のコーヒーで別れを惜しんだ。

一九〇六年、荻原二十八歳、戸張は二十五歳だった。戸張は日本へ、荻原はフランスへ立った。帰国した戸張は居を谷中の七面坂下に構え、孤雁と号した。荻原は三年して彫刻家として帰ってきた。二人は三日にあけず往来した。…碌山に始まる日本近代彫刻は明治、大正の谷中(やなか)を舞台にしたのである」

谷中はJR西日暮里駅一帯で、駒込から上野へと続く下町である。明治末から東京帝大を近くに控え、素人下宿が建ち並んだ。帝大生だけでなく美校生や音校生たちも多く、学生街を形成した。

当時、浪漫主義が退潮して自然主義が湧き起こり、谷中にあった太平洋画会は活気にあふれ研究生は百人を超えた。

帰国後、碌山は会に招かれ、そこへ黒田清輝が起こした白馬会から退いた中原悌二郎らが入会。悌二郎は碌山に出会ってその作風に打たれ、彫刻に転向する。もう一人、東京美術学校生の石井鶴三は第二回文展で碌山の作品を目にして衝撃を受け、「これこそ真の彫刻だ」の言葉を残している。

フランスから外光表現を持ち帰った黒田は、はや過去の人となり、若者たちが時代を担いつつあった。だが「東洋のロダン」との声高く将来を嘱望された碌山が、明治四十三年、三十二歳の若さで急逝。その遺志を継ぐべく石井は戦後も東京美術学校の塑造教室で教授として、助教授・笹村草家人と後進指導に当たる一方、教室をあげて碌山研究と美術館建設を推し進めた。

変節多い日本の近代彫刻史をなぞることになったのは、美術史を鳥瞰するためでない。俊太郎のいた「位置」を確認したいがためである。

日本の近代彫刻を切り開いた荻原碌山、戸張狐雁、中原悌二郎、石井鶴三という、明治から戦後に連なる最先端の人脈群。その本流、ただ中に俊太郎もいたことがわかる。

そして戦後。よれよれの復員服の俊太郎が美校に帰り、石井からその造形思想に基づく徹底した指導を受ける。

「塑造は内なるデッサンである」と言うのが石井理論である。骨格や肉づけへも一切、妥協を許さなかった。だがそうした没頭の一方、学風、人間関係をめぐる攻防がつきまとうのも白亜の塔の常だ。

俊太郎は卒業後も学内にとどまって昭和二十八年、東京芸術大となった石井教室の助手になる。当時、彫刻科の二つの教室は確執が続いていたほか、笹村助教授の専横に学生たちが反発して内紛状態だった。俊太郎が自らを揶揄して言う「黒子の時代」である。多難な現場にあって、すべてに明快な俊太郎が意外に辛抱強さを見せるのである。

近代彫刻を牽引してきた石井の時代にも終焉が迫っていた。石井の作風を「観念の干物」と退ける評論が現れ、世は「抽象」花盛りに。定年制が表面化し、石井はついに学園を去る。そしてそのころ講師に昇格していた俊太郎も石井に殉じて職を辞した。時代は戦後日本が高度成長に歩み始めた昭和三十五年、俊太郎三十六歳の年である。

日本の近代彫刻の新時代を拓いた荻原碌山の遺作を展示する碌山美術館(長野県穂高)。教会風の建物の頂上には基俊太郎の「不死鳥」がひるがえる。

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