No.5 トンとウヮーの恩忘れまじ
沖縄学の父、伊波普猷(いは・ふゆう)は沖永良部島を訪問の折、帰路が暴風だったため、平安座舟(へんざぶね)と呼ばれるサバニ四隻を繋ぎ合わせた筏船で島を離れ、大海に乗り出した。
順風に恵まれたこともあって、沖縄本島には十五時間後に帰着した。舟と舟を山原竹を束ねはさみ、舟縁に波よけをつけ、二本の帆柱を備えた平安座舟は転覆の恐れなく、大海も浅瀬をも滑るように疾走するという。
この時、伊波の舟には船員七人が乗り、子牛二頭、豚二十頭が積まれていた。
つまり豚も海を渡るのである。加えて明治大正の時代もブタは島の農家の換金産物として那覇あたりの市場に売られていた。
沖縄で島豚は「アーグ」と呼ばれる。
粗い黒毛、面長の顔、顔面を覆う垂れ耳。腹部は大いに垂れ下がり、多数の乳頭を地面にひきずって歩く。奄美の島豚の特性と瓜二つで、いかにも独特である。
ならばアーグは南島本来の在来種なのか。だが「 『さて、どうでしょうか』と島豚の生き字引、元名護博物館長の島袋正敏さえ確信がない」( 『豚と沖縄独立』)。
「沖縄で有史以前に生息していたのは牛馬のみである」というのが考古学上の旧来の解釈だが、中国から輸入された豚の子孫が、絶滅したアーグだと誤解された形跡がないでもない。確かにアーグと容姿が似た豚は中国にいる。しかし「アーグと同種のブタは中国にはいない」という科学的見解も一方にある。つまりよくわからないのだ。
蒸し返すが、仮にアーグが中国から輸入されたものとすれば、それは中国から琉球に帰化したビン人(現・福建省)三十六姓の持参だとされる。彼ら華人集団は那覇港に近い久米村に居住し、朝貢貿易における対中国交渉を担ったほか、沖縄に中国文化を広めるが、必需品のブタも欠くべからず持参品の一つだったろう。それらは一三五〇年ごろ、室町時代の話である。
やや下って一三八五年、中山王・察度の使者で王の弟、泰期が中国から帰国の際、種豚を持ち帰って増やし、民間に配り普及を図ったという記録がある。それは中国から訪れる冊封使四〜五百人の歓待用の肉を調達するためで、需要が高まったことで喜界、大島の島々からもかき集めていた。
このあたりが沖縄へのブタの本格的な導入期とする見方が強く、さらに一七〇〇年代に入ると琉球王家は一層、養豚を奨励する。ヤマトでは肉食を禁じた時代、琉球では王が直々にブタの産業化を勧めていた。
かくて島豚は島々を渡り、中国のそれと交雑し在来の境目を失っていく。
ブタより二百年遅れて琉球にトン(甘藷)が入ってきた。トンはブタとともにシマびとたちの生活を支え、ブタの絶好の餌ともなって養豚を一層栄えさせた。
もともと熱帯原産のトンはフィリピン・ルソンを経て中国に広がった。江戸時代、青木昆陽によって救荒作物として全国に普及し、いかにも薩摩が発祥地のような名になったが、中国から最初に持ち帰ったのは沖縄の人、野国総管である。琉球王の命で福州で栽培法を学び、ふるさと北谷・野国村で実験栽培し成功した、野国の努力にこそ人もブタも頭を垂れるべきではないか。
イモは人間を救ったばかりか、豚にも良質な栄養源となった。
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