No6 エゲレス豚にあらずや
今や全国ブランドの「鹿児島黒豚」。そのルーツは紛れもなく奄美の島豚だ。畜産王国を自認する鹿児島は奄美の在来黒豚に英国のバークシャー種を掛け合わせ、明治から百年以上をかけ「鹿児島バークシャー」といわれる独自の系統を築き上げた。
鹿児島黒豚の最大の特徴は鼻と尾、手足が白い「六白」(ろっぱく)。その鹿児島黒豚は今日、年間五十万頭にも迫る出荷量に急成長、島豚と似た「脂身のうまさ」を求めて鹿児島を訪れる観光客も多い。
だが本家を自認するアーグ産地・沖縄側では「あれはイギリス豚。全身黒づくめの島豚こそ本家本元」と引かない。あるいはそこには地域のオリジナリティーを絞滑に略奪された歴史への恨み節が幾分含まれているのかもしれない。
私が「ブタ」を侮れないと深く自覚したのは、沖縄に視点を据えてノンフィクション小説を書き続ける作家・下嶋哲朗の名著『豚と沖縄独立』を読んでからだ。
下嶋が取り上げているのは「黒豚だった沖縄の豚が戦後、白豚に変わった」不思議についてで、それはハワイの移民ウチナンチューが太平洋を越え、沖縄祖国の飢餓を救済しようと五百五十頭の豚を送った結果だった。
作家の視点は当然、島豚の歴史にも及ぶ。以下は恐れ多いが下嶋の文を借用、それに私見を重ねた。
琉球王国はイモと豚と中国貿易で栄えたことは前編でふれた。その財に目をつけたのが島津十八代藩主・家久だ。当時、薩摩藩は朝鮮出兵と関ヶ原の敗北で疲弊困窮していた。家久は藩再起を琉球侵攻にかけた。
一六〇九年、薩摩軍船百隻と三千の将兵は奄美の島々を攻略南下、三月琉球へ。その港がくしくも後に連合国軍が上陸する読谷村渡久地だった。
島津軍はすぐさま王家の城域首里を攻め、五月に琉球王を捕らえた。島豚アーグと琉球イモはその時の戦利品となった。
「薩摩は持ち帰った黒豚の藩外への流出は厳に取り締まったはずで、それが鹿児島以北は白豚となった理由ではなかろうか。明治の中期、アーグに英国産バークシャー種を掛け合わせたものを 『鹿児島黒豚』として売り出した」。
「白豚ヨークシャーが沖縄に入る機会があった。だが白豚は暑さに弱い、などの理由で鹿児島から 『鹿児島の黒豚』が逆流した」
下嶋の文は核心に迫る。「…白豚は暑さに弱いなどとは作り話で、琉球へ 『鹿児島黒豚』をベラボウな金額で売り付けるための、薩摩の創作だったのではなかろうか。そのとき一九〇二年は、沖縄 『県』の独裁者といわれた鹿児島出身の、第八代沖縄県知事奈良原繁の時代である。薩摩藩は戦争に明け暮れて逼迫した財政を琉球王国からの豚、イモ、さらに砂糖、琉中貿易の横取りで肥え太らせた。その財力にものをいわせて明治の中央政界に進出、悲劇沖縄戦になだれこむ、という以降の日本の進路に大きな影響力をふるった」。
問題は白か黒かではない。島豚かバークシャー種かでもない。南島か薩摩かでもない。私たちは在来豚が辿らざるをえなかった歴史に思いを馳せ、「シマを守り伝える」こととは何かを自問せねばならない。
鹿児島六白豚の「やごろう豚」(農水省web「6次産業化特集」から)
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