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No.17 孤高の彫刻家

田中一村が美校に入学したのは、俊太郎に先んじる十七年、昭和が幕明けた春である。同期に東山魁夷らがいた。だが三カ月後には退学。経緯は不明だが、当時の美校に南画を学ぶ環境はなかった。美校開設者の一人、アーネスト・フェノロサは南画を嫌い、一種の漫画と見ていた。

日本の近代美術史は東西、新旧の激しい相克の歴史でもある。俊太郎がくぐった美校-東京藝大の学史はまた、日本美術界の葛藤、攻防と重なりあう。古きはつねに新たきによって乗り越えられるのである。

俊太郎の評価の高い作品群の中で、素人の私の気に入りは昭和三十二年、院展に出品した「アラバマに落ちた星」だ。

その作品について、美校後輩で現代抽象彫刻を代表する保田春彦は「基さんはそれまで石井教室の影がつきまとっていた作風を一新させ、明快な空間意識を決定づけ…軽やかな青々しさを感じさせる傑作」と評している。

芸大を辞した俊太郎は昭和三十五年、すべてを振り切るように渡米。ハーバードの大学院造園科で特別講義を行うなど、そのところ傾斜していた建築設計、造園など「空間概念」について新たな活動の場を見いだしつつあった。またそれは師匠・石井の師である荻原碌山の足跡を確認する、遡行回帰でもあったろうか。

そして帰国後は造園、設計とのかかわりを一層強めるが、その果実はまた郷里奄美にももたらされ、昇曙夢記念公園などで清透な作風に接することができる。

五十代の円熟期、俊太郎の活動の場はさらに広がる。住んでいた駒込で一般が学ぶ市民大学を主宰、自らも教壇に立った。昭和五十七年には石井教室時代に全力を傾けた長野県穂高に建つ碌山美術館の新館設計に当たったほか、三年後には同館顧問に迎えられている。このころしきりに奄美にも足を運んでいて、金作原の貴重な自然林を守れ、と提唱するなど示唆に富む言動を続けていた。

私は昭和四十年代末に一時、基と行動を共にしたことがある。子供ほどの年齢差の私に、基は奄美の生活空間に秘められた古代観念を語り、あるいは夜更けまで焼酎を酌み交わして、熱っぽく島の明日を語った。だが俊太郎の思いを汲みとるのに私は若すぎた。

「セミはパンも葡萄酒も飲まず、ただ樹液で生きる。従って神に近い」と評した詩人がいる。生きるという現実は、時にパンとその精神、時間を引き換えねばならない。彫刻家もまたその宿痾から逃れ得ない。身近なものを切り売って、ロ糊をしのぐ俊太郎の悲しみを知るものは少ない。

それでも「存在とは何か」を追い求め、妥協を許さぬ俊太郎のストイックな生きざまと、「明晰で毅然とした」作品群を評して保田春彦は「孤高の彫刻家」と冠している。

都心の住み慣れたアパートから、山深い秩父の地に俊太郎が妻・俊子と移り生んだのは平成三年六十七歳だった。自ら移住地を探し求めた末、友人・関根一五郎(後述)の勧めで百年を超す古民家を借りた。

「秩父の山里へ越した。昔ながらの農村風景を残している里である。庭先の斜面は畑用地で一面に草が繁っていた。湿地に池を掘っていると水が湧き、水面がキラキラ揺れる。頭上の月を映しているのであった」とその環境を書いている。

小さな田畑で米や野菜を作り、気が向けば粘土と格闘した。だが「人生晩年の豊饒」は長くなかった。斗酒なお辞さずの酒豪の肉体は病魔に蝕まれていた。平成十七年六月二日、瞑目。八十一年の生涯だった。

俊太郎が彫刻に向き合ったとき、あいにく戦争が終局近くになっていた。そして戦後。芸大・石井教室で再開するが、こんどは教室運営をめぐる紛争に巻き込まれ、大学講師を去らざるを得なかった。

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