No.20 ハワイからのプレゼント
沖縄の戦後養豚の第一歩は、まだ硝煙くすぶる中だった。そこには「ウワーなくして暮らしなし」とする沖縄びとの切実な思いが滲む。
「住民は硝煙弾雨いまだおさまらぬうちから自分の家に豚を入れ、不足がちな食糧から餌を分け与えるなど、養豚復帰の動きは涙ぐましいものがあった」(沖縄県農林水産行政史)。
だが戦場に生き残った島豚はあまりにわずかで、約二千頭の残存豚は、戦後食糧難下であっという間に食べつくされた。
「ふるさと沖縄に種豚を贈ろう」。
戦後間もなく、救済の声が意外なところから起きた。ハワイに移民した沖縄県人たちが、立ち上がったのだった。
日本からのハワイ移民史は古い。「元年者」と呼ばれる第一陣百五十三人が各地から送り出されたのは明治元年である。沖縄からの移民はそれに遅れること三十二年。先人同胞なく、救援の手を差し伸べる者はなかった。低位の奴隷的立場に甘んじ、生活の基盤を築くまで血の滲む苦闘が続いた。
その沖縄移民たちの地位を引き上げたのが「豚」だった。種付け技術に秀で、中国人のそれを凌駕し、たちまちハワイ最強の養豚人になった。徐々に生活レベルも向上する中で真珠湾奇襲。日米が開戦したことで米兵がオアフ島に結集、豚肉需要は一気に高まった。中には養豚だけでなく、レストランを開業、「戦争成金」のウチナンチューも誕生した。
やがて日本が敗北し、沖縄は焦土に。故郷の惨状に胸痛め、復興に種豚を贈ろうという声が起きたのは、当然といえば当然な成り行きだったかもしれない。
「豚ほどウチナンチュ-の生活と密接な関係を持つ動物はなく、豚の繁殖ほど目下の沖縄に有意義な事業もない」。
布哇連合沖縄救済会の豚購入資金のカンパ運動は賛同者相次ぎ、わずか三カ月で五万ドルに達した。その資金を手に代表団がアメリカ本土で買い付け、一カ月の航海の末、一九四八年九月、五百五十頭が沖縄に届けられた。
思わぬプレゼントに島民は歓喜。アメリカ豚は繁殖力が強く、自家消費だけでなく多くの収入に結びついた。子豚は生後八十日ほどで種付けができ、平均八頭を産んだ。当時、沖縄では子豚一匹がサラリーマンの年収でも買えないほどの財産だったという。
当然、配分合戦は過熱した。村の顔役が独占したり行方不明になる豚も出て、軍政府が介入する騒ぎまで引き起こすが、ハワイ移民の善意は効果覿面だった。いち早く養豚を軌道に乗せ、豚長者が登場し、昭和二十六年には戦前レベルの十万頭まで復活した。
沖縄養豚は戦火の中から不死鳥のように蘇り、養豚王国が復活したのだ。
しかしアメリカ豚の経済効率にひかれ、その繁殖に夢中になるあまり、島豚アグ―を滅びさせる結果となった。戦場を辛うじて生き延びたアグーが寒村で一つまた一つと消えていった。
戦後、シベリア抑留から復員した農家出身の元兵士は故郷の変貌に目を丸くする。
「兵隊から戻ったら、豚はむる白くなっていてタマゲタさ」( 『豚と沖縄独立』)。黒から白へ。沖縄豚に革命が起きた。
沖縄戦で飼い主を失った豚は「放浪豚」と呼ばれ、だれが食べても文句を言われない。廃墟の渡嘉敷島に上陸した、青い目の兵士を出迎えたのは、黒い島豚だった。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?