見出し画像

鹿のカレーの隠し味

その時、わたしは鹿だった
晩秋の清里の森で仲間の若い牡鹿が、今まさに狩られようとするのを止めに入る一頭の雌鹿だった

わたしの他にもう一頭、助けに入った雌鹿がいた
名前は"ちあき"
とても頼り甲斐のある大好きな仲間
晴れの日も雨の日も、これまで共に駆けてきた仲間

「アザ、行けぇぇー!!!」
ちあきが若い牡鹿の名を呼んで叫んだ
二頭のオオカミを、力強くわしっと掴んで牡鹿にとどめを刺しに行くのを阻んでいる

これはビーウルフキャンプの"鹿狩り"というアクティビティの一場面

「自分と群れ(パック)を信じて生きる あるオオカミの小さな冒険ものがたり」 
これをコンセプトとし、理性で飼い慣らされた日常から離別しオオカミの世界に入っていく、一泊二日

このプログラムは一つの旅でもある
内に秘めた野性(nature=本質)に目覚め、新しい物語とアイデンティティを手に入れる旅
"鹿狩り"はその旅路の最終章でクライマックス

ルール上、鹿はオオカミたちに押し倒されてオオカミたち全員がつながった状態で10カウントされると死んでしまう
単純にそれをさせない為なら、ちあきとわたしの二頭がかりで最低ひとりを剥がしておくのが効率がいい

でも違う

ちあきは、わたし達スタッフは
「死なせない」
をしたいんじゃない

「生きろ!!!」

をしている
だから、効率も確率も無視して、ちあき鹿に背を向けて、わたしはアザ鹿を助けに行った

鹿もオオカミ達ももみくちゃになって
命の限り"狩る・狩られる"にそれぞれの力を発揮しつながりあう
オオカミたちの必死の形相、荒い息、体の重みに体温と湿気がビリビリに押し寄せてくる
濡れ落ち葉や泥まじりに折り重なった肢体の最下層にいる若い牡鹿の姿はすでに見えない
けれど牡鹿のうめき声と上に向かう力、前に逃れようとするナニカだけは立ち昇っているのを感じる
しかし、やはり多勢に無勢
わたしは塊の中でもがき、肋に強烈な圧力と痛み、息苦しさ、無力感と共に10カウントを聞く

仲間の鹿は死んでしまった。。

後悔はない
でもやっぱり助けたかった
本当にほんとうに助けたかった

四頭の仲間の鹿を、わたしは助けることができなかった
最初のゆうじさん鹿はなすすべもなく狩られた
その時の学習を、二頭目のふゆき鹿に活かそうとしたけど不十分で
三頭目のはるき鹿のことは見失うし
それでアザ鹿まで、、


過去に助けてもらえなかった経験が、わたしにはある
勇気を振り絞って
"この人なら"、いや"この人には"、、と助けを求めて伸ばした腕を
バッサリ切り落とされ排除された経験がわたしにはある
「ありのままのお前は人を傷つける
 ここから居なくなって、もう関わらないで欲しい」

それは"痛み"なんていう
生やさしいモノではない

わたしは、それを知っている
知っているし 囚われてもいる

だから、助けたかった

「わたしは、あいつとは違う」

そう自分自身に証明したかったのかもしれない
行動と結果で乗り越えたかったのかもしれない
でもできなかった、、悔しい

ありえないくらい
激しく悔しくて仕方がない

料理スタッフとしての持ち場のキッチンに戻り着くまで堪えに堪えて
ボロボロ泣きながら両手で、この後のご飯になるカレーの入った二つの鍋をかき混ぜる
いい匂いだ。。ちきしょう。

そうして手をぐるぐるぐるぐる動かしてるうちに前夜のアクティビティ、ハイスパイダーネットの時の参加者のひとり"ともちん"の姿が思い浮かんでくる

「どうしよう、上手くできないかもしれない!」そう尻込みする仲間に
正確な言葉とは違うかもしれないけど
「いいよ!なんでもうけとめるよ!」と、ともちんは真正面から応える
その声も立ち方も存在感もすごく胸に響いて、オレンジの光がさしてみえた

それは、わたしがそうありたいと願う姿
日頃、子ども達や保護者、スタッフ、友人、家族といる時に心がけていること

だけど、わかった
それだけじゃなかった

わたしも、そうして欲しかったんだな

「ありのままでいいよ
どんなあなたでもうけとめるよ
伸ばされた手は必ずとるよ」
そうされたかった、、、

そうか、わたしはあの冬
あのひとの助けになりたかったし
助けられたかったんだ

というわけで、今年のホーミタクエイカレーには、みっちー鹿のそんな涙が入ってます

思いもかけずに入ってしまった、鹿の隠し味の顛末🦌


いいなと思ったら応援しよう!