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目から鱗:“人間”とは「人の心の間(ま)」の意味です

{1,"人間"との語につき}

【人間】という言葉はですね。
漢字の本元である中国では「じんかん」と読み、文字通り人々のコミュニケーションを言い指しておりましょう。
それなのに日本では「にんげん」と読みますが、それはナゼなのか。
実はですね、そこに仏教的な要素が入っているらしいのですよ。
そんな大事なことを知らずに日本全体で混用しているのでした、読み方は仏教式で意味合いは中国に倣っているという話なのですね。
要するに【ほとけごころ】との言葉でも分かる通り次のように成るらしいのでした、その仏心の広さをこそ言い指す言葉が{にんげん}だったという訳ですよ。
※【人間:にんげん、人の心の間】
はい、つまりは1間(いっけん、ひとま)、2間、3間と表現する広さの事であり、従って本来的に人と人との関係を言い指すモノではありませんのです。
要するに、仏に対する個々人の理解度を推し量る言葉として用いられていたものと推察できるのですね。

{2,仏心とは}

さて、となるとですよ。
俄かに仏教哲学っぽく成っては参りましょう、これは深遠です。
早い話が、「人間とは、どれだけ仏に帰依しているか」、「いかほど仏心・仏性を持ちえているか」なのですね。
はい、それを逆に言うなら他人たちとの関係に反比例して来るとの推定ができては参りましょう、「仏と親しむか人との関係に囚われるか」との命題がチラついては参ります。
例えば、私は俗人ながらも{般若心経の真髄}を日々の心構えにしております。
要するにですね。
俗世の有象無象に現を抜かすか、反対に{山川生物悉皆有仏性}と融合できているかとの話にて。
※{帰依}とは身も心も神仏に委ねることなり
はい、宗教的観念というよりも大いなる存在に敬虔な姿勢で向き合う状態を言いさすのではないでしょうか。

{3,古来の宗教は皆同じ}

{2項}のことは他の宗教に於いても全く同じでしょうね。
神道やキリスト教なども敬虔な信者は明らかに俗世を超越して清廉な生き方を為さっているのではありませんか。
現に、私にはFB友の中に澄み切って正しく明鏡止水なお心を持った牧師の方が居られますよ。
この方の投稿やコメントに触れていると丸でユートピアに誘われているような感じがするのでした。
はい、その辺に思いが至ってみれば{仏心}の真なる深い意味合いが見えても参ります、単なる優しさではなくシャングリラ・桃源郷を提供するような風であることが。
つまりは次のように言い定められましょう。
※ ”人間”の本質は心の広さを追求するもの
さて、これを受けたならば普段は一体どう在るべきか。

{4,神妙ならぬ“仏妙”}

翻って、わが心境の大きさは如何ばかりなのか。
畳一枚か4畳半か、はたまた野原か田園か。
これにつき、家族や隣人たち、友人、知人、袖振り合う方々に普段どんな風景を提供しているか、との発想で捉えたなら面白く成るのではありませんか。
はい、これまでアッサリ使っていた{仏心}の真意を見据えてみれば何やら自分自身が、あたかもブッダの一弟子のごとくにも思えてきて愉快なのでした。
つまりは今後に為すこと全てが神妙ならぬ“仏妙”なのだと言いえては参りましょう、誰彼なく野原の花を摘んで手向ける様な、です。
あるいはまた豊かに実った稲穂の束を手渡す風な、そんな感じが仄かに見えて来るという訳ですよ。
早い話が「すれ違うだけの人であっても和顔施を」との教えが込められているという事なのでした、{仏心}にはですね。
※ イザイザ持たん“仏妙”なる我が人間を!
以上にて。
今日からは世の皆で真なる{にんげん}を心がけませんか、との提案なのでした。

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原口證
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