母が死んでから、母の声を聞いた事がある。
母と妹と3人で、寝る前に暖かいミルクティーを飲んで寝るのが日課だった。
高校に上がっても、「紅茶出来たよ」と言われたら部屋からのそのそ出てきて、一緒に飲んでから、また部屋に戻る。
誕生日は、その時間にケーキが出て豪華になった。
母が死んだ後もその時間は好きだったし、その日も妹がパウンドケーキを焼いて、2人で美味しそうだと、うはうはしていた。
ちょうど化粧台の前にいた時なのも、はっきり記憶がある。
「かな」
と不意に、妹が呼ばれた。
その部屋には私たちしかいないはずなのに。
「お父さん……?」と私が玄関の方を見ても誰も居なかった。
でも確かにその音は、「カナ」という発音をした。
「もう辞めてよ〜〜〜〜〜」と妹が怖がるので、ごめん気の所為だったと、なだめて座った。
紅茶をズズっと啜った。
妹は本当に怖がりだったので、心の底から申し訳ないと思った。
「私が極端に怖かったのは」
と妹が口を開いた。
「私も聞こえたからなの」
親孝行は、30代や40代になってからやっと完成するものだと思っていた。
紅茶を飲む時間と朝の支度の時間は、なにかと説教をされる時間になってしまって、少し億劫な時の方が多かった。
妹は仲良く母と話せるのに、私は大人になればなるほど話せなかった。
死んだ後から色々考えた。
最終二社で悩んだ就職先の相談を、母にしたかった。
卒業式の袴選びや段取りを母のお節介に頼りたかった。
私の好きな人や彼氏を紹介した時には色々ふざけた話をして欲しかった。
結婚式の時に、私のウエディングドレスを見て泣いて欲しかった。
多分20代のうちはまだお互い張り合ってしまって、無理だっただろうから、30代や40代になって紅茶を飲む時間を楽しみにしていれるようになりたかった。
口うるさい母を避けてきたのに、こういう事ばかり思いついてしまう。
私は愛されていたと思っていたい。
ろくに親孝行出来ていないのに、期待ばかりしてごめんなさい。
親孝行をしたと思えるまで、生きていて欲しかった。
1年も経ったのにまだ真新しい後悔や悲しみが襲ってきて、突然涙が止まらなくなるときが何度かある。
立ち直れたようで、立ち直れていない。
でも、そのぽっかり穴が空いた部分を、色んな人が埋めてくれたから1年生きてこられた。
仲良いと思ってた子からはその後連絡が来ずにそのまま、とか何人もいるが、
逆にたらしくて仕方がなかったやつに
「よく頑張ったね」とか言ってくれちゃって泣きそうになったことが忘れられないとか。
どうやって声をかけたらいいか分からない人もいたと思います。
負担に思わせて、本当にすみません。
何も触れない優しさも、一緒に遊んでくれたりしてくれた子も、本当にありがとう。
なんだかんだで今日で1年。
一回忌は、21日でした。
1年前の21日は、母とビデオ通話をして、それが最後の会話だった。
その時は舌を噛んでしまうくらい泣いていたので、きちんと母と会って最後の会話は、母がたくさん買っていたかごを、どれか一人暮らしの家に持って行っていいかというものだった。
「いいのがある?」
「うん、あった。
……じゃあ授業行ってくるね。また来週の土日に帰ってくるわ」
「はい、気をつけてね」
「帰ってくるから、家に居てね」
「うん」
「すぐ帰ってくるから」
「はーい、飛ばさんようにね、行ってらっしゃい」
もう母への親孝行は出来ないから、
この世にはない母の欠片を、
拾い集めて書き残して、
時々見返して、母を思い出して、
大事に大事に、母のいない人生を生きていくことにする。
また、声をかける時は私の名前を呼んでね。
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