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おじいちゃんのこと

北海道新聞でいまも連載されている、穂村弘のエッセイをまとめた「迷子手帳」を読み終えた。

以前穂村弘がすき、というエントリを書いたことがある(下記)。依然として今もすきで、文庫本ばかり買っている自分にしては珍しく、新刊が出ていればハードカバーでも買う作家(歌人)のひとり。

「迷子手帳」のなかで、「最後の船旅」という話がある。91歳のお父さんが亡くなる時の話。
この話を読み、重ねて思ったのは今年90歳になったおじいちゃんのことだ。

家族が一番好きで、口うるさく、責任感だけはあり、かと言って自己客観視はできず、人目を気にして、自分に不都合なことは聞かず、なんというか昭和の田舎のじじいを絵に描いたような私のおじいちゃん。
嫁であるお母さんや、孫である私の妹なんかはおじいちゃんを煙たがっているところをよく見るが、それでも私はおじいちゃんが好きだ。

それは18で実家を出てから15年以上経つ距離のせいもあるだろうし、帰省すれば順当に言い合ったり喧嘩したりはするけれど、頑固で、本当は小心者で、おばあちゃんに甘えて偉そうにしているおじいちゃんをきらいにはなれない。

生まれた時からおじいちゃんはおじいちゃんで、おばあちゃんはおばあちゃんで、35歳になる今でも2人ともが元気で生きていることはとても嬉しいと思っている。
孫も幸い2人を見せられた。もうすぐ、3人目を見せることができると思う。
だけど、おじいちゃんが90歳になってその時間っていよいよ短くなって来てるんじゃないの、と思うことが増えてきた。

数年前、おじいちゃんは胃がんになって胃を取った。
食べることや甘いものが好きで、孫の私たちと一緒になって子どもみたいにアイスやお菓子を食べていたおじいちゃんが、袋ラーメンを4つに割って小さい鍋でちょっとずつ食べている。ジャンクフードが好きなのは変わらないけど、食べられる量がガクンと減って体はガリガリに痩せた。
実家にいない私はやけに感傷的になって、家業から帰って来てお風呂上がりに白い綿の下シャツに股引きのおじいちゃんを見るとなんだか泣けてくる。
毎日一緒に住んでいるお母さんなんかは「またそんな格好でお客さん来てるのに出て来て!」なんて通常営業なんだけど。

80代はまだ普通のおじいちゃんおばあちゃんという感じがするけど、90歳のおじいちゃんおばあちゃんはいよいよよぼよぼで、なんだか化け物じみていて、なんというかこちらもその後のことを考えないといけない気になるというか、覚悟をだんだん決めないといけないような気になってくる。
だけど、私はおじいちゃんもおばあちゃんも好きなのでいなくならないでほしいし、彼らの葬式に出席することを思うともう泣けてくる。
何年も前から(特に結婚した頃から想像する回数は多くなってきた)、その時のことを覚悟する必要があるんじゃないか?と繰り返し思ってはいるが、まだ覚悟はできていないままだ。

とりあえずは7月に第3子の出産があるし、8月に3人を連れて帰省するからそれまでは生きていてもらわないと直接顔が見せられない。
一緒にしたいことなんてもう何にもないけれど、それでもただ生きていてもらわなければ。
100歳になっても、覚悟なんか決まらないと思う。ただ、連続する今日を、明日を、生きていてほしい。

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