「本人の意思」とは何だろうか--嘱託殺人事件で考えるべきこと
死にたいと言う人がいたから、ご希望の通りに死なせてあげました――。
何という安直さだろう。医師の倫理を論議する以前に、人間のあり方として、苦悩を抱えた人に接するときの姿勢として、どうなのか。
京都で発覚した医師2人による嘱託殺人事件は、グロテスクな様相を見せている。
2人は『扱いに困った高齢者を「枯らす」技術』という電子書籍で、「老人を、証拠を残さず(中略)消せる方法がある。医療に紛れて人を死なせることだ」と書いていた。
容疑者の1人である元厚労省医系技官は、ツイッターでこんな発信をしていた。
<議員定数を若干減らすよりも、尊厳死法とか安楽死法を通した方が財政は持ち直すと思うけど>
<高度医療に当たる人よりも、適当なタイミングで死なせる医者が求められてるんだよ。自治体なんて後期高齢だの介護や障害福祉でまじカネないからね>
高齢者や障害者をお荷物と見る優生思想。医師の資格への思い上がりも垣間見える。女性を苦痛から救うためではなく、自らの思想を実行し、殺人願望を満たすための薬物投与ではなかったか。
しかも容疑者1人の口座には、亡くなった女性から130万円が事前に振り込まれていたという。これでは殺人請負業(殺し屋)である。
女性が患っていたALS(筋萎縮性側索硬化症)は、深刻な難病だ。筋肉がしだいに動かせなくなり、やがて全身介助で胃ろう、人工呼吸器に頼るしかなくなる。
身体の自由が失われる一方、意識は明瞭。希望を失って死にたい気持ちになるのは自然なことかもしれない。女性が死なせてほしいと意思表示したのは確かなようだ。
だがたとえば、うつ病で死にたいと口にする患者、進行がんと知って絶望した患者に死なせる手伝いをするのか。事故や病気で両眼を失明した人から頼まれたらどうか。
「本人の意思」とは何なのかを、筆者は問いたい。
人間の気持ちや考えは揺れ動くものだ。時間の経過に伴って変化することも多い。
そもそも意思はどうやって形成されるのか。内的な思索だけだろうか。家族や周囲の人との会話、学校教育、読んだ本、新聞、テレビ、映画、ネットを介した情報……。
「純粋な自己決定」は存在しない。過去の経験を含めて外界の影響は大きい。とりわけ他者のかかわり方によって心理・思考は違ってくる。
ALSが進行したとき、人工呼吸器の装着を望まずに亡くなる患者がいる一方、生存を選ぶ患者も少なくない。
脳内活動による機器操作、分身ロボットといった技術は進みつつある。ALSの治療法が登場する可能性もある。
SNSでつながった相手が死なせたがりの医師ではなく、生き抜いているALS患者ならどうだったか。別の価値観が伝えられていたら、どうだったか。人間の温かみに接していたら、もっと優しい社会なら、どうだったか。
死を望む患者がいるから安楽死を法制化する? そういう平板な思考で扱ってよいテーマではない。
(2020年8月10日、京都保険医新聞「鈍考急考10」)