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萩の町並:武家屋敷と廻船問屋と宿場町

萩市の町並は、江戸時代の地図が今でも使えるほど変わっておらず、街中に古い町割や宅地割、長屋門、土蔵などの付属屋が現存しています。

萩の古地図

NPO萩まちじゅう博物館が作成し、萩博物館で配布しているマップです。

萩市には四つの重要伝統的建造物群保存地区(重伝建)があります。

萩城下町の街並みは、慶長九年(1604年)関ケ原の戦いに敗れた毛利輝元が、指月山(しづきやま)山麓に城を築き、町割りを行ったことに始まります。

現在、萩市には四つの重要伝統的建造物群保存地区(重伝建)があります。京都市、金沢市と並び全国で最も多いものです。

萩市HPより

■堀内(ほりうち)武家住宅

:橋本川の河口、旧三の丸に当たり、藩の役所や毛利一門をはじめとする重臣の屋敷が立ち並んでいました。

■平安古(ひやこ)武家住宅

:橋本川沿いに重臣の下屋敷や中級の武家屋敷が建てられたところ。このほか、橋本川と松本川に分かれる三角州の南端、川島や土原地区にも、上・中武士の屋敷が並んでいました。

■浜崎(はまさき)廻船問屋

松本川の河口に萩藩の港町として整備され、廻船業と水産業で栄えた地区で、江戸時代から昭和初期に建てられた町家が軒を連ねています。

■佐々並(ささなみ)宿場町

参勤交代の際などに藩主が休息する御茶屋を中心とした、宿駅機能を有する集落として栄えました。

武家屋敷

家臣の屋敷面積は身分により決められ、屋敷は原則一カ所と定められていました。本屋敷の他に下屋敷をつくることを許されたのは千石以上の家臣。
萩市の武家住宅は屋敷の配置形式から大中小の三つの屋敷型があります。

■屋敷形態

1.大屋敷型

:正面に長屋門を構え、屋敷の周囲を物見櫓や土塀、石垣で囲みました。長屋門は入母屋造り本瓦葺きで、白漆喰を塗り込めた壁の腰には、海鼠(なまこ)壁や下見板を張り、開口部には出格子を設けました。

堀内地区:旧益田家物見矢倉
山口県萩市、かつての萩城三の丸、堀内にある益田家は、永代家老を務めた萩藩の重臣。屋敷が城下と結ぶ北総門に近い位置にあったため、見張り台も兼ねた矢倉をもっていたという。それが旧益田家物見矢倉で、北の総門からの人の出入りを見張る「隠密対策」としての機能があったと伝えられています。
高さ1.8mの石組の上に建つ長さ11m、奥行約5mの堅固な入母屋造りの建物は、棟瓦、懸魚(げぎょ)、格子窓などの独特の意匠が施され、「矢倉長屋」との別名も。 益田家物見矢倉が見張ったという北の総門は、平成16年11月に「萩開府400年」を記念して復元されています。益田家の石高は、江戸時代を通じて 6,000石 とされています。
堀内地区:口羽家住宅。堀内鍵曲(ほりうちかいまがり)すぐ近くにある武家屋敷が口羽家住宅。口羽家は、萩藩の寄組士で1018石ほどの家柄。現存するのは、主屋と表門の2棟で、いずれも18世紀後半から19世紀初めに建てられたもの。表門と住宅が揃いで残っている武家屋敷は萩でも珍しく、国の重要文化財。
口羽家住宅の表門は、萩に現存する長屋門のなかでは最大。 口羽家は、永代家老に次ぐ家柄で、長屋門は、江戸藩邸の門を拝領して萩に移築したものと伝えられ、門番所(門番の部屋)、中間(ちゅうげん)の住まい、 馬小屋が配されていました。 片潜門(かたもぐりもん)の左には、門番所も設置され、さらに主屋には身辺警護の家来が身を隠した相の間も残されることから、口羽家が上級武士だったことがよくわかります。

2.中屋敷型

長屋門の代わりに長屋と腕木門を設け土塀で囲んでいます。

3.小屋敷型

簡素な腕木門を設け生垣(いけがき)をめぐらしています。

■主 屋

屋根は入母屋または切妻造り桟瓦葺きで、玄関には接客用の式台が設けられています。間取りは、表側にゲンカンノマとツギノマ、床の間や長押のある八畳または六畳のザシキが並び、裏側にダイドコロやイマ、オクノマが並びます。

堀内地区:菊屋家住宅:菊屋家は、萩藩の御用商人として藩を支えてきた豪商です。屋敷は幕府巡見使の宿として本陣にあてられ、藩の賓客をもてなす迎賓館のような役割も担いました。江戸初期の建築で、現存する大型の町家としては最古の部類に属し、400年の歴史があります。 菊屋家は、大内氏時代には武士でしたが、毛利輝元公萩城築城の際には有力町人として萩に入り、町づくりに力を尽くしました。 主屋、本蔵、金蔵、米蔵、釜場の5棟が国指定重要文化財に指定され、約2000坪の敷地の約3分の1が現在は通常公開されています。すばらしい庭や美術品、民具、古書籍など貴重な資料が数多く展示されており、往時の御用商人の暮らしぶりが偲ばれます。 【 国指定重要文化財(主屋、本蔵、金蔵、米蔵、釜場)】

三角州には多くの水路が引かれ、運搬や農業用水、生活用水として利用されてきました。川島に流れる藍場川の水は武家屋敷の庭に引かれ、その水を台所、風呂で大切に使う工夫がされ、ハトバ(洗い場)がつくられました。

川島に流れる藍場川
旧湯川家屋敷:藍場川沿いにある藩政時代の武家屋敷で、川沿いに長屋門があり、屋敷の中には橋を渡って入ります。 主屋には玄関、座敷と茶室などがあり、特に茶室回りの意匠が優れています。また、川の水を屋敷内に引き入れて流水式の池泉庭園を造り、池から出た水を家の中に作られたハトバや風呂場で家庭用水として使った後、再び川に戻しています。このように藍場川沿いの民家では環境問題に配慮した水の利用法を見ることができます。
旧湯川家屋敷:ハトバ(洗い場)

明治になり、広い屋敷は、士族の生活救済のための夏みかん畑として活用されました。夏みかんと土塀は萩の風物詩となっています。

廻船問屋

■厨子二階建町屋

浜崎の町並は、通りに面して間口が狭く、奥行きの深い敷地に、切妻造り、平入り、厨子(つし)二階建ての町屋の主屋や、土蔵が通りに沿って建ち並んでいます。

意匠は、一階の出入り口は大戸に潜り戸が設けられ、開口部は蔀戸(しとみど)や格子戸が入ります。
二階は、格子戸や障子窓に手摺つきの縁のあるものや、壁が大壁造りの町屋では、虫籠窓(むしこまど)や小さな袖卯建(そでうだつ)があります。
浜崎では、軒裏まで漆喰で塗り込める塗込造りは少なく、虫籠窓も明治以降に普及しました。

浜崎地区:旧山村邸:厨子二階建。二階には虫籠窓(むしこまど)や袖卯建(そでうだつ)がある。
旧山村家住宅は、2棟の主屋、2棟の土蔵、離屋からなる、江戸時代後期に建てられた大型の町家です。この地方には珍しい「表屋造り」という建築方法を用いた美しい白壁の建物。(表屋造りとは、店棟(=表屋)と居住棟を前後に分け、この間に玄関庭を設けるという町家の建築形式で、京都や大阪の豪商によく見られた当時もっとも洗練された町家の造りです) 施設内では、山村家をはじめ、浜崎の旧家に伝わる品々や浜崎に関する資料を展示するなど、浜崎の情報発信の拠点となっています。

■主 屋

間取りは、細長い敷地に表から奥まで土足で往来できる土間(トオリニワ)に添って、表通りからミセ、ナカノマ、ザシキが一列に並ぶ。トオリニワに天井がなく、小屋組が見えます。

浜崎地区:旧山中邸:トオリニワで、表から奥まで土足で往来できる。
旧山中家住宅は、昭和初期建ての典型的な浜崎の町家。浜崎伝建地区の中心部に位置し、浜崎本町筋から裏のとおりまで抜ける細長い敷地に、表から主屋、付属屋、土蔵が建ち並んでいます。これらはいずれも浜崎伝建地区の伝統的建造物(文化財)として特定されています。

江戸時代中期に建てられたものは、旧上の束を貫で固め、貫が棟木と母屋桁を支えるため梁の上を縦横に走っています。

江戸後期になると、貫は無くなる。また、トオリニワと部屋との間仕切りは、一筋の溝に板戸を引くものが古い形で、江戸時代後期には障子戸引違いとなります。

浜崎の本町筋の川側には、萩藩主の御座船を納めた屋根付きの大きな御船倉がある。建物が存在するのは珍しく、国史跡に指定されています。

浜崎地区:御船倉:藩主の御座船(ござぶね)や軍船を格納した船倉で、慶長13年(1608)萩城築城後まもなく建てられたといわれ、浜崎重要伝統的建造物群保存地区に位置しています。 奥行き27メートル、間口8.8メートルで、両側と奥に玄武岩で壁を築き、上部に瓦屋根を葺き、前面には木製扉を有しています。
浜崎地区:御船倉の中(普段は見られない)

宿場町

佐々並市は、萩市の南部を占める旧旭村の南縁に位置する農村集落で、かつての萩城下町と三田尻(防府市)を結ぶ萩往還の中間点に位置することから、参勤交代の際などに藩主が休息する御茶屋を中心とした、宿駅機能を有する集落として栄えました。
 佐々並市の町並みは、江戸初期に農業を基盤としつつ、萩往還の整備に伴って宿駅機能を備えた町並みとして成立し、近年に至るまで町並みの地割に大きな変化はなく、かつこの町並みの特徴を示す建築物や工作物、環境物件が現在まで数多く残っています。

佐々並地区:はやし屋旅館
佐々並地区:旧小林家:旧小林家住宅は、江戸時代「目代所」があった場所に明治40年に隣地から移築された主屋と、大正期に建てられた土蔵、昭和10年代に増築された離れからなります。かつては旅館を営んでいたことから、主屋の一階の主座敷に加え、二階には萩往還を望む表座敷、佐々並川や周囲の田園を望む奥座敷など、佐々並の魅力を十分に楽しめる建物です。

最後に…
「伝統的な建築には、時代を超えて受け継がれてきた知恵と技術が詰まっています。それをただ保存するだけでなく、現代に生きる私たちがその価値を再発見し、新たな形で未来へと繋いでいくことが必要です。今回、まだまだ、全く紹介しきれていませんが、次回に持ち越すとして、この記事が、その第一歩を踏み出すきっかけになれば幸いです。」

「ここまでお読みいただき、ありがとうございます。この文章を書きながら、改めて日本の伝統的建築の奥深さとその可能性に気付かされました。これからも、歴史や技術の探求を続けながら、皆さまに有益な情報をお届けできるよう努力してまいります。どうぞ引き続きご期待ください。」

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