自堕落な毎日から抜け出そうと思った理由を話そうと思う。
あなたは、自分が「ちゃんとした人間」だという自覚があるだろうか。
「まあ…人並みにはちゃんとしてるんじゃないかな..?多分。」
と思う人は、このnoteを読む必要はない。
毎朝大体決まった時間に起きることができ、いつものように歯磨きして、朝食を食べて、綺麗な服を着て、時間通りに通勤通学できている人は、
読む必要はない。
当たり前に締め切りを守ることができ、やるべきタスクをこなし、欲望への自制心があり、自分が存在する理由が少しでもあると感じる人は、
読む必要はない。
いや、そもそも、
ちゃんとした人は忙しいのだから、時間の無駄と感じるのだから、自堕落だと自負してないのだから、
こんなnoteを読もうと思わないはずである。
自分はどうしようもない人間だと少しでも思っていない限り、ここまでスクロールして読まない。
万が一、興味本位でここまで読み進めてしまった人がいたら、そこまで短い記事ではないし、流し読みするような記事でもないので、迷わずブラウザバックしてほしい。
僕は、自堕落な人間だと言う自覚がある。
昼夜逆転なんて日常茶飯事だし、部屋は基本汚いし、明日の予定があろうが明け方までスマホゲームしてしまうし、締め切りの直前になって慌てて突貫工事でタスクをこなすか、それか完全に開き直ってやらない言い訳を見繕う。
できることなら極力人と話したくないし、仕事だって可能ならしたくないし、貯金なんか絶対できないし、好きなこと以外のタスクは取り掛かることが最難関なくせに、
プライドだけは高く、自分の常識を疑わず、他人の意見に耳も貸さず、人を全く頼らず、本気出せばなんでもできると思い込み、まだ自分は人生のスタートに立ってないだけだと言い聞かせている。
社会のお荷物だってことは理解しているし、引け目も感じている。目の前のやるべきことから逃げてゲームに没頭しつつも、ふと我に返って絶望、また現実逃避、自己嫌悪のループを繰り返し頻繁に死にたくはなるけど、まあ別に毎日生きていけてるわけだし、と人生の全てを先延ばしにしてしまっている。
どうせ、何か大事件が起こらない限り、ずっとこんな生き方のままなんだろうなぁ。
はーあ。
と、半ば人生を諦めている。
謎に、人生はこんなもんよ、と達観さえしてしまっている自覚がある。
死ぬほどの勇気はないけど、生き長らえるほど人生に魅力を感じない。
社会に反抗するほどの行動力はないけど、従順なペットとなるほど素直にもなりきれない。
人生の全てに乗り遅れてる感じ。
もうどうしようもない。
こっから変わる勇気も気力もない。
人生ってこんなもんか。
いっそのこと、役立たずのお荷物として社会的に罰された方が楽でいいかも…。
そんなことを、ここ2〜3年ずっと考えていた。
僕は、4年前の大学4年の時に起業した。
組織の中でまともに働ける気がしなかったのと、1人だけでのうのうと生きていきたいなという思いがあったからだ。
で、ぱっと結果が出たせいで、その勢いで、就職という決まりきったレールを逃げるように降りた。
そして、幼少期からずっと思い描いていた、ほぼ働かず、自由に過ごせる日常を手に入れた。
好きな時間に好きなものを食べて、好きなだけ寝て、好きな時間に起き、月曜の昼から飽きるまでゲームして、思い立ったら手ぶらで旅行にも出かけた。
それだけではない。
一時期六本木に入り浸ったこともあるし、会員制のバーにもお偉いさんに連れて行ってもらったこともあった。回らない高級寿司も食ったし、超美人しか参加しないパーティにも参加したことがある。
このまま人生最後まで過ごしてやろうか、思ってたのも束の間、この生活は3ヶ月もしないうちに飽きた。
その、自分勝手さに、言いようもない虚しさに絶望した。
人間が社会的な動物であることを思い知らされた。
世の大人は、この自由気ままな生活を過大評価しすぎだ。
今が忙しいから、今が縛られているから、今に自由がないからそう思うだけで、結局ないものねだりに過ぎないと思う。
自由な生活に慣れたら慣れたで、今度は暇な時間が恐ろしくなる。
我に帰る瞬間が怖いから、虚構の世界にずっと身を置き続ける。
やらないといけないことがあった時代を、ありがたく思うようになる。
人と関わりたくなるし、人のために何かしたいとさえ思うようになる。
(ただこればっかりは、休学や休職などを通して実際に経験してどう思うかを確認してみていただきたいところである。
しかし、セミリタイアを経験したという当時のビジネス仲間は、口を揃えてつまらなかったと言っていた。そして彼らとは現在全く連絡を取り合っていない)
つまり、これは僕の仮説でしかないが、
長年引きこもったり、自堕落な生活をしている人というのは、
その生活が楽しくて楽しくてしょうがないから続けているというよりは、
こんな生活続けたくて続けてるわけじゃないけど、他に何かする選択肢も勇気もないから、結果的にダラダラと続けて今に至っている…。という人がほとんどなんじゃないだろうか。
つまり、何かしら強いコンプレックスや劣等感を持ちながら、負い目を毎日感じ続けて生きている、と。
そして、その癖誰にも心を開こうとしないから、自分だけで悩み、葛藤し、苦しみ、日々自分だけの世界に没入し抜け出せなくなっていく…という負のスパイラルになっているのではないか、と。
少なくとも、僕自身がそうだった。
僕は、四年前にビジネスを始めてから情報発信ということをやっていた。
つまりブログなりTwitterなりメルマガなりで、なんらかのコンテンツを作って発信していた。
そしてそれは今でも継続しているつもりだったのだけど、
ここ1年は、まともに情報発信をすることはできなかった。
どうも、体が動かない。
やろうやろうと思ってはいるのに、取り掛かることすらできない。1mmすら進まない。
そして、Twitterの1ツイートすらできない自分を直視したくないから、現実逃避する。ゲームに時間を忘れて没頭し(10~20時間というレベルで)、あるいはYouTubeに時間を溶かし、そしてある瞬間我に帰り「またやったわ…」と我に帰り絶望、自己嫌悪し、自分自身の存在価値を疑い鬱っぽくなる時間がくる。
そして、その自分自身を逃避するためまた虚構に逃げる、我に帰り自己嫌悪、の繰り返しである。
この我に帰る瞬間というのは僕の場合、衝動的にモノに当たることが多く、どれだけ高価なものであってもその衝動を抑えられず壊してしまう(スマホ、ゲーム機、パソコンの画面とか)。これは堕落人のあるあるなんじゃないだろうかと勝手に思っている。
だから、引きこもりだとか、自堕落な生活をしている人は、自分だってそんな生活したくてしてない、と考えることができる。
つまり、心の奥の奥の奥底では、この現状をどうにかしたい、という感情がかすかにでも残っているはずなのだ。
ただただ、現状維持(現実逃避⇄自己嫌悪)という巨大な勢力に屈しているだけ。
全くないわけではないのだ。
じゃあ、その現状維持という負のスパイラルに、変化を加えるにはどうすればいいんだろうか。
1つのケースが、自殺、になるのかもしれない。
自殺は、その行為の善悪を抜きにすると、現実から逃れつつ、スパイラルを停止できるという意味で合理的なツールと言えるかもしれない。
そうでなければ、外的要因による、自身の環境の劇的な変化、だろうか。
例えば、自分が重い病気にかかる、とか、両親や親しかった友人が亡くなる、とか、所属するコミュニティ(学校や職場、ネット上の繋がり)から追放され居場所がなくなる、などが挙げられるかもしれない。
外的要因により価値観がガラッと変わるくらいの出来事が起きて初めて、本当の意味で我に帰る。
そして、「時間はあんなにあったのに、もっと早く変わっていれば…なんで今までずっと…」と人生レベルでの深い傷を負うことにもなるのだろう。
そして、もっとも可能性が少ないのが、
外的要因によらず自発的に気付き、変化しようと思うこと、である。
これを実現するのは至難の業だろう。
取り返しのつかない何かが起こるまで、普通はこの考えには至らない。
僕のように、一度情報発信をしなくなったら、そこから再開するのには、たとえ些細な行動(1ツイートするだけ)でもかなりのエネルギーが要る。
一度人と関わらなくなったら、
一度学校に行かないことが当たり前になってしまったら、
一度毎日ゲームすることが当たり前になったら、
一度自分の人生をしょうもないものだと決めつけてしまったら…。
よほどのことがない限り、復活はない。
さて、
しかし、僕自身の話をすると、長期間のブランクの中、情報発信を再開させたのだ。
現に、こうしてnoteを更新している。
しかも、140文字までのツイートなんて軽いものではなく、noteでしかも5000文字を超えるかなり“重い”コンテンツ。
今までの議論で言うと、note書くかーという軽い気持ちじゃ書き始めるわけがない。
何かきっかけがないと説明がつかない。
さて、ようやくこのnoteの本題、なぜ僕が自堕落な毎日から抜け出そうと思ったか?の話に入ることになる。
上の可能性で行くと、自殺か、外的要因か、自発的な気付き(内的要因)かと言うことになるが、
僕は自殺していないから、何らかの外的要因により駆り立てられたか、自発的な気付きがあったかのどちらかと考えることができる。
そして、僕はそこまで強い人間ではないのは承知の通りなので、
ある外的要因によって駆り立てられて、このnoteを今書いている。
実際のところ、複数の外的要因が重なった結果がこのnoteを生み出しているわけなのだが、
一番の大きな要因だけここに記そうと思う。
それは、親友の死である。
26歳だった。
自殺だったそうだ。
そいつは幼少期からの縁だったから、20年以上の付き合いだった。
小、中、高校とずっと同じで、別々の大学に行ってからも旅行に行ったり地元で飲んだりと、定期的に縁が続いている仲だった。
そいつは、昔から責任感が強く、人一倍自分で悩むところがあった。
誰にもSOSを送ることなく、自分一人で決断したらしい。
どんな理由で事に至ったかは本人にしかわからないから推測でしかないけれど、
生前聞いていた話や僕宛だという遺書を見る限り、現実逃避の最終脱出装置として事に至ったのだろうと考えている。
筆が重い。
彼の死を、こんなnoteの記事ネタなんかに使ってしまっていいのかという葛藤が未だにある。
ただ、彼の命は僕の手で救えたかもしれない、という思いは、僕の中で一生消えることはないと思う。
取り返しのつかないことを、知らず知らずのうちにしてしまっていた、という事実は、どんな僕の人生の出来事よりも傷をえぐった。
そんな思いから、徐々に湧き上がってきた思いが、
彼の死を無駄にしてはいけない。
彼のような最後を遂げる人間を、1人でも多く救えないだろうか。
という思いだった。
もしかしたら、状況が状況なら、僕自身もその決断をとってしまっていた可能性だった確実に存在するのだ。
そして、未だに関係のある学生時代の友人の中にも、現状の人生について悩んでいると言う話を聞く(彼の死を機にそう言う話になった)。
大切なものは失ってから気付く。
という言葉はもう手垢にまみれた言葉になってしまっているが、
改めて純粋な気持ちで受け取って欲しい。
大切なものは、失ってから気づくのだ。
親友、パートナー、両親、恩師。
あなたにも、大切な人の1人や2人はいるはずだ。
このことを思い出すだけで、今までになかった感情が生まれて来るのではないだろうか。
そして、決して忘れてはいけないのが、
他でもない自分自身こそ、
一番大切なものである事だ。
僕は本当に悔しい。
彼の決断の是非や、自殺という行為の是非を議論するつもりは全くないが、単純に、悔しい。
あいつと、この人生でもう二度と会話できないという事実が、ただただ悲しい。
だから、
このことを伝えたい。
このことを、伝えなければならない。
僕は、このことを伝える役目がある。
彼の死を無駄にはできない。
1人でも、同じ最後を遂げる人間を減らしたい。
ひいては、1人でも人生に苦しむ人を減らしたい。
そう思ったから、僕は、このnoteを執筆するに至ったわけである。
今後僕は、自分自身に悩んでいる人のサポートを今後していきたいと考えている。
その中で、かつて自堕落だった(今もそう)僕自身が、身をもって変化していく様子を伝えることこそ、一番の説得力になるのではないかと思い、このような重い記事を投稿するに至った。
少しでも何か感じてくれた方は、今後更新する記事にもぜひ目を通して欲しいと思う。
……………
最後までこんな記事をお読みいただき、ありがとうございました。
こんなnoteの片隅にある記事を最後まで読んでいただいた稀有なあなた、もし何か思うことがあったり、僕に何か伝えたい場合は、こちらのTwitterにて、DMなりリプなりを送っていただけら大変嬉しいです。
必ず目を通させていただきますし、必ず返信もさせていただきたいと思っています。
ここまで読んでいただいた方の人生が、少しでもより良い方法に向かうことを願っています。
ありがとうございました。
はらいち