Happy Women's Map 高知県高知市 韓国孤児3000人の母 田内 千鶴子 女史 / Mother of 3000 Korean Orphans, Ms. Chizuko Tauchi
田内 千鶴子 女史
Ms. Chizuko Tanume
1912 - 1968
高知県高知市若松 生誕
Born in Kochi-city, Kochi-ken
「子供たちに笑顔を取り戻したい」
"I want to bring back smiles to the children."
田内千鶴子は韓国で孤児救済のために生涯をかけ、日本人で初めて韓国文化勲章国民章を受章しました。
Chizuko Tauchi was awarded the National Medal of the Korean Order of Culture for Japanese Speech for the relief of orphans in South Korea.
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「はちきん」
千鶴子は7歳のとき、朝鮮総督府官吏として先に赴いた父に呼ばれ、母と高知市の生家から木浦市に赴きます。山手小学校、木浦女子中学校を卒業すると、東京の師範学校を目指して勉強するも、17歳のときに父親は病死。助産婦をする母の稼ぎで暮らしはじめ、木浦女子高等学校で音楽を学び、ミッションスクールで音楽の先生を務めます。教会でオルガンを弾いて日曜学校の先生をしていると、24歳のある日、恩師・高尾益太郎が訪ねてきます。「街中の孤児を集めて孤児院を始めている男が、子供たちに笑顔を戻してあげられるボランティアを探している。」早速、千鶴子は「乞食大将」と呼ばれる韓国人キリスト教伝道師・尹致浩(ユン・チホウ)氏が運営する孤児院「共生園」をたずねます。麦わら帽子に草鞋を履き、青く澄んだ目をした男が一人で4・50人の孤児たちを親身に世話しているものの、電気もガスもなく、障子もふすまもないがらんどうの30畳ほどの部屋一つ、子供たちは顔もあらわず服もろくになく裸足で寝転んでいます。千鶴子は音楽どころか食事の世話をするので精一杯。毎日三度、規則正しく食事をする習慣から教え始め、食前のあいさつ、顔や手を洗うことを教えます。
「乞食大将」
翌年、両家はじめ日本人また韓国人の激しい罵倒のなかで2人は結婚式をあげます。クリスチャンの母・ハルは「結婚は国と国がするもにではない。人間と人間がするもの。」と励まします。式を挙げて教会を出たとたんに、木浦市中の乞食が全部集まって「乞食大将万歳」と叫び、私服で式に臨んだ夫はいつの間にか用意していたアンパン200個を孤児たちに配ります。2人は、共生園の改修資金や食費の寄付を仰いで駆け回ります。ようやく2年目に新しい家を建て息子を出産。日本の敗戦で身の危険が及ぶ中、千鶴子は独立復権した現地の朝鮮語を覚え、チマ・チョゴリを着て、夫の名字を取って尹千鶴子(ユン・ハクチャ)を名乗ります。娘をお腹に抱えながら迎えた敗戦で、刃物や棒を持つ村人が園に押しかけます。「尹致浩(ユン・チホウ)出てこい!日本人と結婚していい暮らしてした裏切者!」千鶴子は暴徒たちの前に進み出て「この人には罪がない。罪があるのは日本人の私にあります。」園の子供たちは千鶴子を取り囲んで「私たちのお父さんお母さんに手を出すな!」と泣き叫びながら抵抗します。村人たちは圧倒され引き上げます。
「人民裁判」
やがて共生園は20周年を迎え、自分たちを殺しに来た暴徒たちが記念碑まで立ててくれます。ところが今度は朝鮮戦争が勃発。最南端の木浦まで北朝鮮が攻めてきます。人民裁判の名のもと次々と村人が殺害される中、夫妻で300人余に増えた孤児を抱えて必死に守ります。とうとうクリスチャンである千鶴子は夫とともに共産軍の人民裁判にかけられます。人民裁判では、軍人が罪を読み上げて村人たちが拍手をすればその場で銃殺されます。「尹致浩(ユン・チホウ)はクリスチャンで。日本人妻を持って・・・」と共産軍人が読み上げたとき誰一人拍手するものはありません。さらに夫が弁論します。「夫として一韓国人として彼女を愛し尊敬し彼女の愛に報います。彼女を死刑にするならまず私を死刑にして欲しい。共生園の子供たちも同じことを言うでしょう。」2人は命を取り留め、夫は共産軍に人民委員に任命されます。
「スパイ容疑」
やがてマッカーサー率いる国連軍が仁川(インチョン)に上陸、北朝鮮軍を北部へ退却させると今度は韓国軍が侵攻してきます。スパイ容疑で次々と村人が殺害される中、夫妻で町にあふれる捨て子を一人残らず救助して育てます。とうとう「戦時下に人民委員を引き受けた尹致浩(ユン・チホウ)を死刑にする」夫はトラックで連行されます。千鶴子は木浦市内の牧師たちをたずねて身元保証を頼んでまわります。「夫は罪のない人を殺さず、戦争未亡人や孤児たちに食糧を与えるために尽力しました。共産党ではありません。」3か月ぶりに釈放された夫は一人で歩けないほど体力が消耗しながらも、400人に膨れあがった孤児たちのために食糧を探しに行ったまま帰らぬ人となります。
「文化勲章・国民賞」
千鶴子は韓国全土を探し回りますが夫は見つかりません。すると夫の牧師仲間はじめ木浦の村人たちは共産主義者に孤児を任せられないとして「共生園」の土地・施設・財産を乗っ取り「儒達院」とします。やがて韓国軍と連合国軍が38度線を突破して北上を開始、避難民が南に南に押し寄せます。千鶴子は逃げ戻ってきた20余名の孤児たちはじめ、日に日に増える避難民孤児たちのために食べ物を集めて世話しながら、いつか戻ってくる夫のために「共生園」を守りぬきます。米国キリスト教団体の協力により、資金援助だけでなく内発的な活動の支援を受け、営農や酪農、海岸でのカキ養殖を行い、子供たちも学びながら働きます。千鶴子は一時帰国して日本人の有志による後援会を発足、資金カンパも積極的に求め始めます。3000人余りの子供を育て上げ、やがて木浦の村人たちの評判となり、韓国政府から文化勲章・国民賞を送られます。千鶴子は好物の梅干しを数十年ぶりに食べると誕生日と同じ日に56歳で他界。木浦市初の市民葬として木浦駅の広場で3万人の木浦市民に見送られます。
-『土佐史談 (208)』(土佐史談会1998年)
-「母よ、そして我が子らへ」(田内基 著 / 新声社1984年)
-高知新聞 Kochi News
-社会福祉法人こころの家族 Kokoronokazoku
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