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Happy Women's Map 兵庫県明石市 吉本興業創業者 吉本 せい 女史 / Founder of Yoshimoto Kogyo, Ms. Sei Yoshimoto
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「笑わせなあきまへんで」
"Let's make them laugh"
吉本 せい 女史
Ms. Sei Yoshimoto
1889 - 1950
兵庫県明石市 生誕
Born in Akashi-city, Hyogo-ken
吉本せい女史は吉本興業(現・吉本興業ホールディングス)創業者。大坂はじめ京都・名古屋・東京に「笑い」をもたらした女性。
MS. Sei Yoshimoto is the founder of Yoshimoto Kogyo (now Yoshimoto Kogyo Holdings), who brought laugh to Osaka, Kyoto, Nagoya, and Tokyo.
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「これはおまけね」
せいは兵庫県明石市東本町で太物屋(木綿と麻の織物商)の12兄弟の次女して生まれます。せいが幼い頃に一家で大阪に移り米穀商をはじめると、せいの愛嬌と気転の利いた店番で大繁盛します。彼女は米升に親指を突っ込んで計量して客に渡す米を減らして一握り元に戻しながら「これはおまけね」。小学校を卒業するとせいは12歳から商売名人の米穀仲買人・島徳蔵宅のもとで女中奉公しながら、花嫁修業はじめ商売について学びます。22歳のとき両親の進めで荒物問屋(家庭用の雑貨店)主人・吉本吉兵衛(泰三)と結婚します。夫の泰三は家業をほったらかしでひいきの芸人に入れあげて金を浪費、自分でも芝居や剣舞に凝って舞台に上がったり地方巡業に加わったり、多大な借金を抱えて店は倒産します。「そないに芸事がお好きやったら、ふたりでコヤを持ちまへんか?」そんな中で夫の泰三は経営不振で倒れた寄席を購入する話をつけてきます。せいはあちこちを奔走してお金をかき集めますが、舞台に上がる落語家は一人も見つかりません。すると泰三は「浪花落語反対派」を主催する岡田政太郎と提携、ものまね・音曲・剣舞・曲芸・講談・軽口・怪力・琵琶・義太夫など無名の大道芸人を集めて舞台に上げます。「あんたきょう手ぬいたやろ。お客はんぼやいてはたった。」「なにが真打や。あいつ芸を投げよった。」せいは芸人の育成と発掘に精を出します。「カネかかる芸人が上手いとは限らんで。どんな場末にもいい子はおる。はよ探してこい。」入場料は他の寄席の半額以下、さらにせいの愛嬌と機転の利いた店番で大繁盛、泰三は次々に経営不振の寄席を買収していきます。
「花と咲きほこるか、月と陰るか」
せいは法善寺にある大阪を代表するコヤ・金沢亭の買収に乗り出します。高齢化で経営不振が続くとはいえ、大阪を代表する桂派の根拠地・金沢亭の所有者・金沢利助はなかなか首を縦に振りません。「法善寺横丁がさびれてもよろしおますか。水掛不動はんが泣いてまっせ。」胸にグサッときたところで2万円から1万3千円に値切ります。30歳のせいは命を懸けた大勝負「花月亭」で創意工夫を大発揮。花のれん・扇風機・ゴロゴロ冷やし飴・フットライト。お客さんを出迎えるのは、亭主持ちは丸髷で若い人は新蝶々のお茶子さん。「愛嬌のあるスカっとした人がよろしい。万事きれいごとで頼みまっせ。」向かいに並ぶのは料理屋に飲み屋。「こっちがもっさりしていては興ざめだす。向こうはお酒。こっちは芸。これも一つの競走でっせ。」客たちの下足・靴の汚れを雑巾で拭わせたり、平日の昼間には、表芸に尺八・裏芸にハエ取りを得意としながら、池坊と裏千家の心得のある芸人につかせてお茶と生け花を習わせます。敵は紅梅亭を中心に新町の瓢亭・御霊のあやめ館・北の新地の永楽館など一流の座で洗練された落語を売りにする三遊派。「紅梅亭が35銭なら、うちは20銭。」入りを気にする芸人たちにせいは思い切って前金で給金を手渡します。順調に客足が伸び、今夜は客が詰っかけるなあという日には「お一人20銭」の木戸札をくるりと裏返して「お一人30銭」。紅梅亭がますます本格的落語を目指し60銭に値上げすると、永楽館の眼と鼻の先の映画館・北陽館を買い取って北陽花月と名付け、得意の大衆と安値で対抗します。2年後には永楽館は吉本に屈し、三遊派の中心・桂春団治を吉本の所属とします。
「女今太閤」
1913年日本で最古の芸能プロダクション「吉本興業部」を設立します。せいは芸歴問わず芸人発掘に努め、公衆便所にまで待ち伏せして金包みを渡して人気のある真打を獲得。火事や水害が起きると芸人をボランティアに送り出し宣伝に努め「ヨシモトが来ましたで」、関東大震災では焼け野原を探し歩いて東京の芸人を慰問して大阪の舞台に呼び出します。大阪・京都・名古屋・横浜・東京に寄席小屋を広げる中、夫・泰三が愛人宅で急死、35歳のせいは実弟の正之助に経営を執らせます。せいは山口組興行部・山口登の仲介で浅草の浪花家興行社・浪花家金蔵と交渉、二代目広沢虎造の興行権・映画出演権を獲得します。続いてせいは大阪府議会議長・辻阪信次朗の協力を要請、アメリカの「マーカス・ショー」を招聘します。さらにせいは阪急電鉄・小林十三の「P・C・L映画製作所」「東宝映画配給株式会社」と提携、映画制作に乗り出します。安来節、漫才、ラジオ、映画、雑誌、ショーでファンを開拓していきます。やがて、知事まで顎で使う権勢を振う辻阪信次朗が脱税汚職容疑で逮捕されると、多額の寄付者であったたせいも逮捕されます。信次朗の獄中死により事件が終結すると、以後46歳のせいは経営から身を引いて慈善事業また経営不振の大阪のシンボル・通天閣の買収にお金を投じます。「人を殺すタマにならんでほんまよかった」せいが後継者として溺愛して育てていた息子・穎右が亡くなるとせいも3年後に死去します。「若くして後家になって、後家を通しもって仕事してきたけど、そのことが、わてには一番しんどいことやった。」
-吉本興業
-『花のれん』(山崎豊子 著 / 中央公論社1958年)
-『大阪の女たち 』(西岡まさ子 著 / 松籟社1982年)
-『大阪弁 第5輯』(大阪ことばの会 編 / 清文堂書店1950)
-『笑説法善寺の人々』(長谷川幸延 著 / 東京文芸社,1965)
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