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Happy Women's Map 沖縄県糸満市 沖縄産業開発の母 照屋敏子 女史 / Mother of Okinawa's Independence, Ms. Toshiko Teruya

-「日本新おんな系図」(大宅壮一 著  / 中央公論社1959年)

「黄金てだ(太陽)おがで銀の海開けてかわていくみ代や千代の栄い」
``The golden sun opens up to the silver sea, and the glory of generations and thousands of generations.''

「いつまでも差別を叫んで、ひがみ根性を持つより、自分たちの力で自分たちの仕事を開発しなければ、沖縄はいつまでたっても立ち直れません。私はその捨て石になるつもりです。」
"Rather than continuously shouting discrimination and harboring resentment, Okinawa will never recover unless we develop our own work with our own strength. I intend to be a stepping stone for that."

照屋 敏子 女史 
Ms. Toshiko Teruya
 1915 - 1984
沖縄県糸満市 生誕
Born in Itoman-city, Okinawa-ken

照屋敏子女史は、日本の先駆的女性実業家。沖縄引き揚げ者をまとめて「沖ノ島漁業団」を結成、沖縄県魚・グルクンの定価改正、沖縄珊瑚の国際入札の実施、琉球びんがた伝統工芸士の育成、沖縄の地理気候を活かしたプランクトン・マッシュルーム・クロダイ・ボラ・クルマエビ・メロン・鯛・アオウミガメ・スピルリナの栽培・養殖・培養の研究また事業展開に従事。沖縄の自立を目指して沖縄の新しい産業開発に献身した糸満女性です。
Toshiko Teruya was a pioneering female entrepreneur in Japan. She formed the "Okinoshima Fishing Cooperative" to unite Okinawan repatriates. She worked on various projects aimed at promoting Okinawa's self-reliance, including the revision of prices for Okinawa's fish, Gurukun, the international bidding of Okinawan corals, the nurturing of traditional craftsmen specializing in Ryukyuan glassware, and research and business development related to the cultivation and aquaculture of plankton, mushrooms, black porgy, mullet, tiger prawns, melons, sea bream, green sea turtles, and Spirulina, all utilizing Okinawa's geographical and climatic advantages. She dedicated herself to the development of new industries to support Okinawa's self-sufficiency.

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「糸満女性」
 
年に一度の部落単位の爬竜船(ハーリュー)レースで鮮烈に吉凶を占う糸満に、敏子は命知らずで大胆な糸満漁師である父と、自立経済を営む糸満女性である母のもとに生まれます。まもなく両親はブラジル契約移民を志して2歳の敏子を祖母トクに預け出航、母は移民船中で衰弱して死去、父は憔悴しきって帰国するもまもなく死亡。海が大好きな敏子は水中眼鏡をかけると、お腹いっぱいに吸い込んだ空気を一滴ずつ吐き出しながら素潜りして魚を採ります。9歳からは他の糸満女性たちに倣って、漁師から魚を買っては頭に載せたかごに入れて10km離れた那覇まで毎日歩いて行商に出かけます。

「猛烈アタック」
 敏子は16歳のときに妻子ある男を南洋まで追いかけ、トラック、パラオ、サイパンなどの島々を巡って工芸品売買を覚えます。恋人と破局して失意の敏子は19歳のときにパラオで糸満小学校の恩師で31歳の照屋林蔚と再会、猛烈アタックの末に結婚します。しばらくして那覇の夫の実家に移り住むと、夫は名家ゆえに徴兵を免れ召集令状を発行する仕事に嫌気が差して海軍に志願してしまいます。敏子はこれに猛反対、すぐに上京して那覇出身の海軍軍人で衆議院議員の漢那憲和に陳情、夫を日本水産那覇工場長に就任させます。まもなく那覇の10・10空襲で照屋家は全焼、漁船を借り切って一家で鹿児島県、熊本県、福岡県の博多に疎開します。

「沖ノ島漁業団の女団長」
 
ようやく敗戦を迎えるとGHQの命令で帰島できず職にもつけず、同じ様に旧植民地や前線から帰還した沖縄出身者が福岡県に溢れます。そこで那覇市長・富山徳潤ならびに福岡県知事・野田俊作と直談判の上、31歳の敏子は夫と共に沖縄に帰れぬ漁夫300余名を集め漁船12隻を購入、「沖ノ島漁業団」を結成します。長崎県の女島男島方面で操業を開始すると、網に向かって魚を追い込む糸満漁法(アギャー)で沖縄県魚グルクンを大漁に採ります。ところが物価統制令で安く叩き売られた敏子は激怒。ただちに役所に訴え、続いて毎日新聞福岡総局に乗り込んでグルクンの定価改定を勝ち取り、日本で最大規模の漁業団に成長させます。やがて、地元の漁業団との軋轢はじめアギヤー漁の禁止によって3年ほどで沖ノ島漁業団は解散します。

「クロコデール店」
 40歳の敏子と夫のもとににフィリピンでの水産事業の話が舞い込みます。西沙島の漁業権をもらう約束で、台湾に赴いて蒋介石と結ぶ根元博に600万円出資。続いて、全財産を整理してシンガポールの華僑と合弁会社を立ち上げます。ところがほどなく夫・林蔚がマラリアとチブスで急逝。続いて国際政治の混乱の中で出資金をだまし取られ、さらに台風で船は壊滅。敏子は43歳でついに撤退して沖縄に帰る事を決断します。敏子はシンガポールから持ち帰ったワニ革・宝石・香料などをもとに商売を始めます。同郷出身の女実業家・金城夏子の遺産のビルを買いとって那覇の国際通りに店を構えます。敏子は沖縄製品の珊瑚の価格を守るため業界に働き掛けて国際入札を実施。またジャワ更紗・紅型などを販売しながら、首里高校染織科卒業生・屋冨祖幸子を琉球びんがた伝統工芸士・琉球びんがた事業協同組合理事長に育てあげます。

「沖縄産業開発の母」
 未来型海洋都市「アクアポリス」を目玉とする沖縄国際海洋博覧会の開催を聞き付けた俊子は、福岡女学院を出た娘に店の経営を任せると、10数年かけて海岸埋立地に魚類・野菜・果物・花卉栽培を試みる研究を開始します。糸満で12000坪の海岸をうめたて、5000坪で鰻・鯉・車エビなどを養殖。7000坪でメロン・ブドウ・イチゴ・マンゴなどの果樹、蘭、ヤシ類、その他南方花卉類を栽培。砂地また魚の養殖場の上で栽培を工夫して見事に身を実けたメロンを「万博メロン」として大阪万博へ出品しようとしますが本土輸出検疫に引っ掛かり断念。めげない俊子は、海岸をボーリングして冷たい海水を約6万坪の砂地に放水してハマグリの養殖を成功させ、東海大学水産部の指導でクロダイ・ハマチの養殖を開始。店の売り上げをつぎ込むことに反対する家族を背に、洞窟でのマッシュルーム栽培に着手、ワシントン条約のもとアオウミガメの人工ふ化に成功、将来の食糧源プランクトン由来スピルリナゴールドを発売、巨峰を栽培して沖縄ぶどう酒をつくろうと画策。沖縄の新しい産業を育てながら沖縄の自立を目指しながら68歳で逝去。

-「沖縄女性史」(宮城栄昌 著 / 沖縄タイムス出版部1970年)
-「現代沖縄の百人」(松川久仁男 編 / ヤラフォトサービス1975年)
-「日本新おんな系図」(大宅壮一 著  / 中央公論社1959年)
-沖縄県男女参画センター Okinawa Gender Equality Center
-沖縄TV Okinawa TV

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