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Happy Women's Map 長野県松本市 中国とモンゴルの女子教育の母 河原 操子 女史 / Mother of Female Education in China and Mongol, Ms. Misako Kawara

-『カラチン王妃と私:モンゴル民族の心に生きた女性教師』(河原操子 著 / 芙蓉書房1969)

「あはれ蒙古の土に我が蒔きし日本の草花の数々は、今も同じ色香に匂うらんものを。願わくば永久に栄えて、日本の色香に蒙古を飾りてよ。」
"How touching it is that the Japanese flowers I planted in the Mongolian soil still seem to bloom with the same colors and fragrance. I hope they will flourish forever, adorning Mongolia with the charm of Japan."

河原 操子 女史
Ms. Misako Kawara
1875 - 1945
筑摩県筑摩郡松本北深志町(現・長野県松本市)
Born in Matsumoto-city, Nagano-ken

河原 操子 女史は、中国とモンゴルで女子教育を創始した日本の女性教師。下田歌子のもと清国上海で務本女学堂を、善坤王妃のもと内蒙古カラチンで毓正女学堂を創設。女子教育に従事するかたわら、日露戦争の最中に諜報活動にも従事。
Ms. Asako Kawahara was a Japanese female educator who pioneered women's education in China and Mongolia. Under the guidance of Shimoda Utako, she worked at Muto Girls' School in Shanghai, Qing Dynasty China. Later, she established Yuzheng Girls' School in Kalachin, Inner Mongolia, under the patronage of Princess Zhenkun. In addition to her work in women's education, she was also involved in espionage activities during the Russo-Japanese War.

「日支親善」 
 操子は父・忠と母・しな子の長女として誕生。河原家は祖父の曾一右衛門以来、代々藩儒をつとめ、父の忠は松本藩で子弟に教えていましたが、廃藩置県により失業。私塾を開いて漢学を教え、板場支校(四賀)に招かれて教師となります。裁縫を教えていた母を14歳で亡くすと、後妻を娶らず孤独を守り通す父から「国家百年の計は教育にあり、国を富ますも、強くするも、根本は教育だ」「日本と支那とが互に手を握り合わなければ、東洋の平和は得られない」という教えを受けて育ちます。加えて、近所に住む父の幼馴染・福島安生からはシベリヤ単騎横断の話を聞かされ「日支親善」に感化されます。操子は11歳で開智学校4年に編入、16歳で長野県師範学校女子部に進学。長野で小学校に勤めるうちに日清戦争が始まると、操子は中国理解のために学問を希望して、21歳で県知事推薦を受けて東京女子高等師範学校(現お茶の水女子大学)に進学します。しかし勉強の無理がたたって体をこわし、翌年に中退。郷里の父のもとで静養して回復すると、24歳で新設された長野県立高等女学校で教職に就きます。

「下田歌子」
 操子25歳のとき、日本の女子教育界の第一人者・下田歌子が講演旅行で諏訪を訪れます。歌子は早くから中国問題に関心を寄せ、革命家の孫逸仙また西太后と交流、北京語の研究会を創始、自身が創設運営する実践女学校で中国人留学生20名を受け入れ、清国派遣女教員を養成、東洋婦人会を創立していました。操子は憧れの下田歌子を旅館まで訪ね、清国で女子教育に従事したい希望を伝え助勢を嘆願します。まもなく歌子の推薦で横浜の清国人居留民子弟のための大同学校(名誉校長は犬飼毅)に赴任。教壇に立ちながら、放課後に鐘教頭から北京語を学びます。操子は清国の女生徒たちから信頼を得るようになると、清国の家庭事情を見聞してもっと理解を深めたいと考えるようになります。「家庭にて非常に勢力を有する婦人たちと、女同士の親交を重ね」「内外協力して国運の伸長と人類の平和を増進せばや」。2年後には再び歌子の推薦で、清国上海の務本女学堂に初めての日本女性教師として赴任します。清国で初めてできた女学校で、8歳の幼児から30歳の母親までの入学者45名と、操子は寝食を共にして上海語で語り合いながら熱心に指導します。纏足で縮められた足で運動が思うようにできない女生徒達は、操子の大きな足を羨むようになります。

「コードネーム・沈」
 日清戦争後の日本では、対露戦に備え情報収集に力を尽くします。歌子と中国駐日公使の推薦を受けた28歳の操子は、父から贈られた懐剣と、参謀本部の軍人を伴って、9日間のラバ轎の旅を経て内蒙古(モンゴル)の喀喇沁(カラチン)王府に到着。善坤王妃と共に新設した毓正女学堂の教師に就任します。王妹と後宮の侍女、官吏の子女60名の女生徒たちと、日本語、蒙古語、漢語、算術、歴史、習字、図画、編物、唱歌、体操の教育活動に従事。語学に堪能で勉強熱心な女生徒たちに、西洋列国ならびにロシアの脅威を教え込みます。翌年、日露戦争が始まると、操子はカラチン王府内の親露勢力の動向を探る諜報活動に従事。しかし秘密通信をやり取りしていた横川省三また沖禎介ら特別任務班はシベリア鉄道爆破に失敗して処刑され、操子の後任として考古学者・鳥居龍蔵の妻・鳥居きみ子が赴任します。日露戦争が終結すると、操子は毓正女学堂の女生徒を伴って4年ぶりに帰国。何薫貞・干保貞・金淑貞の3人を実践女学校に留学させると、自身は横浜正金銀行ニュ―ヨーク副支店長・一宮鈴太郎と結婚して渡米します。晩年、かつて北海道札幌試験場から贈られて操子が植え付けた撫子の花が、カラチン王宮で今でもかわいらしく咲いていると伝え聞きます。「あはれ蒙古の土に我が蒔きし日本の草花の数々は、今も同じ色香に匂うらんものを。願わくば永久に栄えて、日本の色香に蒙古を飾りてよ。」

-『カラチン王妃と私:モンゴル民族の心に生きた女性教師』(河原操子 著 / 芙蓉書房1969)

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