Happy Women's Map 東京都千代田区神田神保町 日本初のミュージカル女優 高木 徳子 女史 / Japan's First Musical Actress, Ms.Tokuko Takagi
「日本の娘さんたちは何という従順しい素直な女なんだろう」
“Japanese girls are so mild and obedient.”
高木 徳子 (旧姓:永井 徳子)女史
Ms.Tokuko Takagi
1891 - 1919
東京都千代田区神田神保町 生誕
Born in Jinbo-cho, Kanda, Chiyoda-ku, Tokyo-to
高木 徳子(旧姓:永井 徳子)女史は日本初のミュージカル女優です。アメリカ・イギリスでショーダンサーとして活躍後、日本で初めてバレエ、スネークダンスを披露。演出家の伊庭孝と「歌舞劇協会」を結成して浅草オペラの種をまきます。「離婚訴訟」ならびに「妻の職業的独立」を主張して話題になります。
Ms. Noriko Takagi (Noriko Nagai) is Japan's first musical actress. After working as a show dancer in the United States and England, she performed ballet and snake dance for the first time in Japan. She formed "the Song and Dance Theater Association" with director Takashi Iba and sowed the seeds of Asakusa Opera. She has become a hot topic by claiming ``divorce litigation'' and ``wife's professional independence.''
「大陸花嫁」
徳子は、沼津藩出身の元旗本武士で明治政府の印刷局技手を勤める父・脆一と、沼津藩評判の美人であった母・タンのもと質素で厳格な家庭で8人きょうだいとともに育ちます。母親が急逝すると、徳子は神田高等女学校の3年次の16歳の時、神田宝石店の長男で13歳も年上の高木陳平に嫁ぎます。4か月すると、2人でアメリカ行きの船に乗り込みます。写真結婚で単身アメリカに渡る花嫁達が大勢同船しており、シアトル上陸後に泣き出したりごねたり逃げ出したりする花嫁たちをなだめすかすのに徳子は大奮闘します。汽車で大陸を横断しニューヨークにたどり着いたのはクリスマスイブ当日。ニューヨークの明るい夜の街に目を見張ります。「あなた、私たちは幸せですね。ニューヨークは星も大きいですね。これから苦労して成功しましょうね。」夫婦で住み込みの家政婦の仕事にありついて、しばらくして夏のオハイオ州カントンで日本人が経営するのティー・ガーデンを手伝います。徳子は嫁入り道具として持参していた着物を着て給仕をします。続いて、隣のペンシルバニア州ピッツバーグで冬場の茶店を開きながら下宿屋をはじめ、再び夏になるとマサチューセッツ州レビア海岸で茶店を開きながら雑貨屋を始め、冬のボストンに移ってショーウィンドウの生きマネキンをして夫婦で奮闘しますが資金もやがて底をつきます。そこで、10年前にアメリカで人気を博した天勝一座の水芸を真似て手品を始めます。徳子は婚礼衣装である紫の振袖で舞台衣装をこしらえると、音楽に合わせて踊りながら縄抜け・当てものなどをこなし人気者となります。地方巡業とボストンを行き来する1年半に及ぶ旅興行で7千ドルを蓄えると2人はニューヨークに戻ります。
「ショーダンサー」
この頃アメリカでは中流階級向けの洗練された技芸、高度な舞台技術が求められうようになります。陳平は全資金を徳子のダンス修行につぎ込みます。「どうせやるなら世界で名を売るような芸人になりましょう。きっとなってみせます。」20歳の徳子は本格的なショーダンサーを目指してダンス修行に踏み切ります。マダム・デビビラが主宰するブロードウェー・ステージ・ダンシング学院に入学。18名の年下の生徒たちの嘲笑に耐えながら基礎からダンスを学び始めます。やがてめきめき上達して「マダム徳を見よ」と激励され、教師の代稽古を任せられるようになり、半年後には成績優秀で卒業。マダム・デビビラ主催の舞台で活躍するようになります。するとその舞台を見たマダム・サラコに気に入られ、内弟子としてバレー、パントマイム、スペイン舞踊、インド舞踊、声楽を学び、上流家庭に招かれて踊るようになります。陳平も一緒にパントマイムを習ったり活動写真と劇の研究をしながら、街から離れたところに夏場の喫茶店を開業、冬場にはホテル兼レストランを経営します。2年の修行を経て徳子と陳平は日本人の手品師・活動役者・踊り手・歌手からなる一座を結成。アメリカ各地を巡業して周ります。翌年、海を渡ってイギリスロンドンにに降り立つと、貴族また富豪の出入りするのキャバレー・トロコカデロに夫婦で出演を果たします。1週間の給料が75ドルしかなかった手品師時代から1500ドルになります。ロンドン中の新聞に称賛される徳子にモスクワでの1カ月公演の話が舞い込みます。ベルリン公演を前に第1次世界大戦が勃発。2人は急遽8年ぶりに日本に帰国します。
「オペラ女優」
徳子のもとに帝国劇場から出演依頼が舞い込みます。イタリア人降り付け師のジョバンニ・ローシーのもと、バレエの人形の出てくるシーンを集めたメドレー仕立ての「夢幻的バレエ・人形」で徳子は日本人で初めてトゥシューズを履いてバレエを披露。軽やかにつま先を立てて蝶のように舞い踊る徳子に観客は魅了されます。しかし、「両手を大きく広げるのは下品!首をかしげたり歯を見せたりは下品!」「ホワイ!?ホワイ!?ホワイ!?」クラシックバレエ出身のローシーとの対立がひどくなり、ローシーの秘蔵っ子・沢モリノが抜擢されると徳子は帝国劇場から締め出されます。しかしながら、舞台を見てファンとなった貿易商の息子、数寄屋橋スケートリンク主人、機械商若主人、国民新聞記者・川田杵男らの後援を得て高木徳子ダンシング・ススクールを設立します。この頃から陳平の酒乱がひどくなり、徳子は陳平と別居。そして、奇術の女王・天勝の夫で興行師・野呂辰之助の後援で、髙木徳子一座を創設します。横浜から横須賀に渡る旗揚げ公演を行い、アメリカ仕込みのダンス・芝居・声楽で観客の目を引きます。「トゥーダンス」はじめパリのキャバレーで大流行していた「サロメダンス(スネークダンス)」、「白黒ダンス(黒い幕の前で黒服に白帽子・白靴・白蝙蝠傘の男と、白い下着に白手袋の女が躍る)」に観客は大熱狂。アメリカ寸劇「恐ろしき一夜」で妻を冷酷に扱う金持家庭を舞台に夫婦また女の自立を問うストーリーは浅草のキネマ倶楽部で大歓迎されます。
「問題の女」
次々と徳子のもとに興行依頼が舞い込む中で、陳平から突然興行中止命令を受けます。徳子は「離婚訴訟」を起こすとともに、妻の職業的独立を主張する「身分保全の仮処分」を申請します。すると陳平は「同居請求」を訴えて対抗します。当時の旧民法では婚姻中の同居は夫にとって妻に対する絶対的権利であり妻にとって拒むことのできぬ義務とされていました。徳子はスキャンダラスな「問題の女」として社会問題にされ、徳子の主張は全て退けられます。業を煮やした陳平は徳子一座の興行権を興行師・垣田一に売り渡し、総勢三十人で劇場に殴り込みをかけさせます。徳子は興行師・竹内一郎に仲介役を依頼して難を逃れ、陳平を1000円で興行から手を引かせます。地方巡業を始めると、徳子の人気に目を付けた松竹合同会社と契約を結んで昼夜二回の公演をこなしながら、内弟子達に稽古をつけ、企画・演出・振付けを一人で取り仕切ります。徳子の人気は上がる一方で、徳子の疲労が目立ち始めます。病気を押して舞台に立っていた徳子は公演中に倒れ入院します。それでも竹内は強行スケジュールを次々と勝手に組み、療養中の徳子を置いて一座を連れて巡業に出かけます。徳子はストレス発作を起こすようになり、一座は解散します。「高木の手を離れてホットしたと思ったら、竹内という圧制者に捕らわれた」
「ミュージカル女優」
3か月後、徳子は翻訳家で演出家である伊庭孝と本格的なミュージカルを目指し「歌舞劇協会」を結成します。赤坂・演技座で初日を迎えると、美女が蛇に変身するインドの伝説を題材にした『古塔物語』で徳子はセリフで歌で得意のスネークダンスで、夫に永遠の憧れを抱かせた女神に嫉妬する妻を演じて大盛況。すると舞台上で突然暴漢に襲われ、興行師・垣田一派の執拗な襲撃が再会。興行仲裁役の曾我廼家五九郎の尽力で和解が成立すると、徳子と伊庭は根岸興行部と契約を結んで浅草の常盤座で喜歌劇『女軍出征』を上演。アメリカで人気を博した男装して軍隊に潜り込む少女を主人公にした物語で、徳子の歌う劇中歌「チッペラリーの唄」「ダブリン・ベー」など英語のラブソング、「ペッパーポットダンス」「セーラーダンス」「スコットランドの剣舞」など本場仕込みのショーダンスに大勢の男子学生が押し寄せます。徳子の『サロメ』の人気はすさまじく延長公演を行う中、陳平が連日楽屋に現れて座員に絡んで公演を妨害しはじめます。追い打ちをかけるように、徳子に陳平と同居すべしという離婚訴訟判決が下ります。「米人化した原告の行動は、日本古来の美風良俗に反する」。徳子のストレス発作はひどくなる一方。「私のサロメを邪魔しようものなら目をえぐってやる。」
「興行主の愛人」
徳子は松竹合同会社と興行契約を結んで中国・試行・九州・関西と6カ月にわたる地方巡業に出発します。松竹が用心棒として雇った嘉納一家親分・嘉納健二のもと、陳平ならびに垣田一派の妨害もなく、徳子と伊庭は各地で熱狂的に迎えられます。長崎では各国領事が馬車で乗り付け、寄港中のアメリカ水兵たちが劇中歌を大合唱します。徳子は松竹合同会社と専属契約を結ぶと、松竹の仲介のもと3000円で陳平と離婚。するとすぐに妻帯者である嘉納健二に愛人関係を迫られます。当時の旧民法では、妻の場合は夫以外の男性と情を通じた場合は直ちに強姦罪が適用されるのに対し、夫の場合は未婚の女であればお構いなし、例え夫帯者であっても夫から告訴されない限り姦通罪は適用されませんでした。公演を続けるために徳子は嘉納の愛人となり、巡業を中心とする国民的創作オペラ運動を目指す伊庭は徳子のもとを去ります。関西はじめ中国・九州で絶大な勢力を振るう嘉納には誰も逆らえません。徳子は嘉納に強いられた過密スケジュールの中で、観客に女客や家族連れの客の姿がほとんど見られないことに複雑な思いを抱きながら踊り続け、ついに舞台上で倒れます。搬送先の大牟田市の村尾病院で29歳の短い生涯を閉じます。「口惜しい口惜しい」「頭が痛い頭が痛い」
-『狂死せる高木徳子の一生』(高木陳平(述)/黒木耳村(執筆)/生文社1919年)
-『舞踏の夫入 新帰朝の高木徳子』(高木徳子(述)/万朝報1915年)
-『舞踏に死す ミュージカルの女王・高木徳子』(吉武輝子/文藝春秋1985年)
Share Your Love and Happy Women's Story!
あなたを元気にする女性の逸話をお寄せください!
Share your story of a woman that inspires you!
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?