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Happy Women's Map 滋賀県大津市 日本初のピアニスト 久野 久 女史 / Japan's First Pianst, Ms. Hisa Hisano

-国立国会図書館 / National Diet Library, Japan

「これからやりますよ、わたしは生まれかわったのだもの!」
"I'm starting from now on, I've been reborn!"

久野  久 女史
Ms. Hisa Kuno
1886 - 1925
滋賀県大津市馬場 生誕
Born in Otsu-city, Shiga-ken

久野 久女史は日本のみならず朝鮮・中国・オーストリアのウィーンで演奏を果たした日本初のピアニスト。べートーヴェンを得意として、鍵盤は血に染まり髪を振り乱し簪は飛んで着物は着崩れて汗が迸る情熱的な演奏は大きな感動を呼びました。
Ms. Hisa Kuno is the first Japanese pianist who has performed not only in Japan but also in Korea, China, and Vienna in Austria. She specializes in Beethoven, and especially impressed Japan with her passionate performance, in which her keyboard was stained with blood, her hair was disheveled, her hairpin flew off, and her kimono was torn and dripping with sweat.

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「日本初のピアニスト」
 久子は質屋を営む裕福かつ大地主の家の娘として生まれ何不自由なく暮らすも、3歳の頃に自宅近所の神社の階段で転倒し、片足に障害を負います。芸事の好きな母の勧めで京都に出て琴と三味線とを習ひ、琴は生田流で三百曲以上を修め奥許を取得。やがて、東京の大学に通う兄・弥太郎の勧めで15歳で東京音楽学校(現:東京芸術大学)へ入学、日本クラシック音楽の草分け幸田延女子に師事してピアノを学びます。当初は成績不振で退学を勧告されるも久子は土下座して残留を頼み、猛練習の末に首席で卒業、卒業式で演奏します。「鍵盤を叩きつける指先から鮮血が散り」「髪を振り乱して簪が飛ぶ」「着物の裾がはだけて太ももがあらわになる」など情熱的で官能的な久子の演奏は、日本初のピアニストとして絶大な人気を誇るようになります。24歳で東京音楽学校の助教授に就任。日本女子大学でも教鞭をとりはじめます。国内はじめ満州、朝鮮で演奏会を開催して大反響を呼びます。久子のもとには森鷗外の娘・茉莉はじめ東京の上流階級の子女が押しかけます。

「事故とライバルの出現」 
 ところが久子は29歳で自動車事故に巻き込まれて頭部を強打、半年入院した後で数か月に渡り湯治にでかけます。翌年復帰するも「愚痴をこぼしたり何んでもばつばつと口外する様になつたり」「余りに痛ましい気がする演奏」と評されるように、久の演奏はじめ精神と行動はすっかり不安定となります。東京音楽学校は教授として小倉末子をアメリカから呼びよせます。末子はベルリン王立音楽院(現、国立ベルリン芸術大学)でハインリッヒ・バルトに師事、アメリカのメトロポリタン音楽学校教授を務める最先端のピアニスト。同年、東京音楽学校の演奏会で久子は末子と同じ舞台に立つと音楽評論家に酷評されます。久子は評判を取り戻そうと、日本女子大学校櫻楓会主催で復帰記念演奏会を東京音楽学校奏楽堂にて開催。ところがショパン・ピアノ協奏曲第1番の第2ピアノを担当する東京音楽学校同僚のショルツに演奏をボイコットされます。31歳で教授へ昇格した翌年、久子は負けじと日本女子大学校櫻楓会主催による慈善音楽会「ベートーヴェンの午后」でソナタ5曲を東京音楽学校奏楽堂で3時間にわたって演奏。「美しい輝く情熱と讃嘆すべき力」「倒れるまで弾きつづけようとする必死の努力」が評判となり、白樺同人会はじめ全国の音楽会に招待されます。しかしながら、ベートーヴェン生誕150年を祝う東京音楽学校奏楽堂での音楽会でピアノを演奏したのは小倉末子でした。

「芸術家の苦しみ」
 久子は37歳で文部省の海外研究員に選ばれます。「真剣な努力に努力を重ね二年あまりの日には再び演奏をお聞きに入れ御同情を頂きたく存じます。どうかお忘れないで下さいませ!」日本女子大学櫻楓会主催で渡欧告別演奏会「ベートーヴェン後期ソナタ演奏会」を東京音楽学校奏楽堂で開催ののち出発、上海でもコンサートを開催します。ベルリンで留学生活を開始するも、久子は浴衣のまま浴槽に使ったり、劇場で突然床の上に座つて日本式のお辞儀をしたり周囲を驚かせます。大使館を出て着物で自炊生活を始めます。指を痛めピアノが弾けない日々が続く中で、名ピアニストのコンサートに通って演奏を研究します。「左手と右手の調和と、ペダルの使い方の上手なこと」。久子はベルリンのコンサートで感銘を受けたエミール・フォン・ザウアーをウィーンに訪ね、最も得意とするベートーヴェンの月光ソナタを披露。ザウアーに絶賛され、入門の許しを得ます。久子は早速ザウアーの住むウィーン郊外バーデンに移住してレッスンを受け始めます。ところがまもなく「奏法の間違いを指摘され基礎からのやり直しを言い渡された」という噂話が、レッスンに同行してドイツ語通訳を務めた大島浩駐独日本大使夫人の口からたちまちウィーン中に広まります。久子がヘルツホフホテルから身を投げたのは4月20日の日本女子大学校の創立記念日でした。久子の死は当時の日本の芸術論と一緒くたになって物議を醸します。.

-『女性 7(6)』(プラトン社1925年6月)
-『婦人週報 3(38)婦人週報社1917年9月』

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