Happy Women's Map 栃木県白川町黒川村 引揚げ時の性暴力を初めて証言 安江善子 女史・佐藤ハルエ 女史 / Japan's First Testimony of Sexual Violence during repatriation, Ms. Yoshiko Yasue and Ms. Harue Sato
『乙女の命と引き換えに 団の自決を止める為 若き娘の人柱 捧げて守る開拓団』
"In exchange for the maiden's life, in order to stop Team's suicide, the Manchurian Pioneer Team sacrificed the human pillar of a young girl."
安江 善子 女史
Ms. Yoshie Yasue
栃木県白川町黒川村 生誕
Born in Kurokawa-mura, Sirakawa-machi, Tochigi-ken
1924 - 2016
佐藤 ハルエ 女史
Ms. Haure Sato
栃木県白川町黒川村 生誕
Born in Kurokawa-mura, Sirakawa-machi, Tochigi-ken
1925 - 2024
安江 善子 女史ならびに佐藤 ハルエ 女史は、これまでタブーとされていた満州開拓団での戦時下性暴力を日本で初めて証言。日本で唯一の引揚げ時の性暴力被害を伝える慰霊碑「乙女の碑」を建立。
Ms. Yoshiko Yasue and Ms. Harue Sato are the first women in Japan to testify about wartime sexual violence in the Manchurian Reclamation Group, which had been considered taboo 70 years after the war. They erected "Maiden Monumen", the only memorial monument in Japan, to commemorate the sexual violence suffered during repatriation.
「タブーとされてきた引揚時の性接待」
89歳の善子と88歳のハルエは2013年、長野県阿智村に日本で初めて開設された満蒙開拓団平和記念館の「語り部講演会」でそれまで秘めてきた元岐阜県黒川開拓団の満洲地域からの引揚体験について語ります。「自分の命を捨てるか、開拓団の子ども、皆さんをお救いするかは娘達の肩にかかっている。なんとしても日本へ帰りたい。命を救いたい。」「私どもは悲しかったけども、開拓団の命を救うために娘たちは皆泣きながら、ソ連の将校の相手をしなければいけないことになって。そんな目にあって帰ってきたハンデはボロボロになって、心の中に寝ても覚めても忘れられない。時々夢にうなされ飛び起きる。」「犠牲になった私は生きていますけれども、亡くなった人たちはどんなに苦しい悲しい思いをしたやろうか。」と証言します。
「大陸の花嫁」
世界恐慌で不況のどん底の日本から「満州農業移民百万戸移住計画」のもと、善子とハルエは家族と一緒に郷里・岐阜県黒川村から吉林省の鉄道京浜線の陶頼昭駅付近に入植。合計129世帯661名の黒川開拓団は、中国現地住民から強制的に家や畑を安く買い上げて使用人として使い、関東軍の保護下で暮らします。また、「大陸の花嫁」である女性たちの養成所「女子拓殖訓練所・開拓女塾」では、開拓の心構え・農業・裁縫・手芸・家事と並んで「日本人女性として恥じないように最後を務めよ」と教えられます。「王道楽土」の暮らしは長くは続きません。やがて中国大陸と太平洋での戦線が激化、多くの関東軍や成年男子団員が根こそぎ徴兵され、老人・女性・子どもが残されます。遂に日本は敗戦。関東軍の主力部隊は開拓団を見捨てて逃走、開拓移民は置き去りにされます。中国現地住民の襲撃の恐怖と食料難に襲われる中、両隣の広島県髙田村開拓団と熊本県来民村開拓団が集団自決します。黒川開拓団も生か死かの選択を迫られ、「どうかしてここを切り抜けて日本へ帰らなきゃならん」。陶頼昭駅付近に駐在するソ連兵に警護を頼み襲撃を逃れます。ところが、ロシア兵から女性を要求されます。関東軍が連れていた慰安婦は関東軍の武装解除とともにいなくなっていました。開拓団長は徴兵に取られて不在、副団長はじめ男性幹部、さらに外部から避難に合流した医師とロシア語通訳者で話し合います。「第1次世界大戦後のベルリンに処女なしと言った。敗戦に女性の犠牲はつきものだ。」「私が性接待後の避妊また洗浄の方法を指導しよう。」
「開拓団の犠牲」
開拓団の独身女性15人は広場に集められます。「全員を内地に連れて帰るまでその身を預けて欲しい。みんなの将来は必ず面倒を見る。」「どうか頼む。奥さんは頼めん。(夫が)兵隊に行って一人でも頼めん。けどあんたら娘だけはどうか頼む。あんたら10人ほどは犠牲になってここを守らにゃならん。」。20歳のハルエは副団長である父親に説得されます。「命があって日本へ帰らないかん。辛くても頑張れ。」出征兵士の妻よりも下に置かれた独身女性たちの無駄な抵抗はどうにもなりません。「悔しいけれどどうしようもない」。「悪いけど出てくれ」呼び出し係の男性の合図で、女性達は開拓団が避難所にしていた国民学校の裏に設けた広い板の間に布団がずらっと並べてあるだけの「接待所」または陶頼昭駅近くのロシア部隊キャンプ場に代わる代わる毎晩連れていかれ、性接待を強いられます。性接待の意味が分からない10代の少女たちはウォッカを飲まされ、互いに手を握り合って耐え忍びます。「泣いても叫んでも誰も助けてはくれない。お母ちゃんお母ちゃんと声が聞こえる」。泣きながら帰ってくる女性たちは接待所近くの零下30度の医務室で、軍隊のうがい薬を冷たい水で薄めた洗浄液をホースに流して体を洗浄され、開拓団から用意された風呂と餃子鍋を食べながら「がんばらなね」「我慢しなね」涙を流して励まし合います。両親があまり裕福でなく開拓団内の地位が低い最年長21歳の善子は、4歳年下の妹ひさこを守るため他の女性よりも多く接待を引き受け、「お嫁に行けなくなる」と泣きじゃくる年下の少女たちを気丈にひとりひとり抱きしめます。「結婚できなかったら日本に帰ってみんなでお人形の店を出そうね」それでも、一度だけやけ酒を飲んで「ひさこを殺しても私も死ぬ」妹を追い回します。ソ連兵相手の「性接待」は二か月近く続きます。からかったり高圧的な男性団員もいる中、「性接待」を強いられた15人の女性達は次々と性病また発疹チフスに感染、うち4人は苦しみながら亡くなります。
「汚れた娘」
翌年春にソ連軍が撤退すると、黒川開拓団は二百余名の同胞の亡骸を大陸の土に埋め、生ける者で引揚げを開始します。共産党軍と公民党軍の戦火を潜り抜ける中、鉄橋を破壊された松花江で中国兵達に船を出す代わりに女性を要求されます。開拓団の男性幹部たちは言います。「もうソ連兵に犠牲になってるから、ここを渡るためにあんたら頼むよ」。中国兵たちは川のほとりに並ぶ日本人の中から、小学校高学年から中学生の若い女性達を選んで兵舎に連れて行きます。5人の少女達が泣く泣く連行される中、日本人男性は沈黙します。徳恵から列車に乗った一団は、新京の旧陸軍宿舎で難民生活を送りながら引揚げ手続きを済ませ、葫蘆島から米国船で博多港に向かいます。陶頼昭を出発して1か月半後、黒川開拓団の661人のうち451人は日本の地を踏みます。辿り着いた「性接待」を強制された女性達は博多港近くの診療所で性病治療また中絶手術を受けます。引き揚げ者のみんなは自分の生活で精いっぱい。村に戻って隠れて病院に通う善子またハルエたちには悪い噂が流れます。「満州帰りの人はろくなことがない。女はいろいろなことにあっとる。」ハルエの弟さえ「ふるさとでは満州から帰ってきた汚れた娘は誰ももらってくれん。」ハルエはふるさとを離れ人里離れた山奥で山林を開拓します。まもなく満州帰りの男性と結婚。夫婦で酪農を始め4人の子どもを育て上げます。「外国であんな目にあったらここでどん底まで落ちたって苦しいとは思いません」。善子は満州で両親を失い、洋裁の仕事できょうだいを育て上げると、満州帰りの男性と結婚。すぐにこどもができないことが分かり妹から養子を迎え入れて大切に育てます。「前向きに生きていくことが幸せに生きる一つの道しるべ。私の大切な家族を暗い家庭に育てたくない。」
「乙女の碑文」
「性接待」を強いられた女性達は、あれだけ苦しい思いをしながらタブーにされるどころか、「ソ連兵と仲良かったな」「使っても減るものじゃない」元開拓団男性幹部に冷やかされるようになります。被害女性達はトラウマに悩み、ひっそり集まっては涙を流して酔いつぶれます。「なかったこおとにはできない」日中国交正常化を経て陶頼昭を再訪した善子とハルエたちは、「性接待」当事者女性の集い「乙女の会」を結成。戦後40年を経て強硬に反対する遺族会に強く働きかけ、由来が隠された「乙女の碑」建立にこぎつけます。そして戦後70年を経て、長野県阿智村に日本で初めて満蒙開拓団平和記念館が開設されると、善子とハルエは証言を決意。「本当に悲しかったけれども鳴きながらソ連将校の相手をしなければいけない。辱めを受けながら情けない思いをしながら自分の人生を無駄にしながら。」「伝えて欲しい。そういうことがあって生きてきたんだって。平和平和できたんじゃない。」聞いていた人たちが話が終わったとたんに寄ってきて握手を求めたりねぎらいの言葉をかけてきます。取材や講演依頼が相次ぎ、全国に大きな波紋を広げる中、まもなく善子は92歳で逝去。NHK「告白 満蒙開拓団の女たち」で92歳のハルエは実名で証言。「ソ連兵にひっぱりまわされました。めちゃくちゃ頭の中めちゃくちゃ。」「どんどんな苦しい思いしても悲しい思いしても生きなきゃと思いました。」黒川開拓団女性達の性接待が全国に知れ渡り、遺族会の中でもようやく「乙女の碑」の碑文をつくる動きが起こります。黒川開拓団のこどもたちは全員が全員世間に広めて欲しい人ばかりではない中で、ハルエは訴えます。「若い人に知って欲しい。伝えていかなきゃならん。」戦後80年を前にして碑文に記されます。『乙女の命と引き換えに 団の自決を止める為 若き娘の人柱 捧げて守る開拓団』『私たちがどれほどつらく悲しい思いをしたか、私らの犠牲で帰ってこれたということは覚えておいて欲しい』。
-満蒙開拓平和記念館
-NHK・ETV特集「告白 満蒙開拓団の女たち」(2017年8月5日)
-「封印された記憶 岐阜・満州開拓団の悲劇 」(『岐阜新聞』連載2018年4月24日~11月 19日)
-「満蒙開拓団 “戦争と性暴力”の史実を刻む 語り継ぐ “戦争と性暴力”」(ANN2020年3月9月)
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