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Happy Women's Map 広島県呉市 ライ症候群親の会・カルテ開示運動の創始者 本畝 淑子 女史 / Founder of the Reye's Syndrome Parents' Group and the Medical Records Disclosure Movement, Ms. Yoshiko Motoune

-「こわいカゼ薬」(本畝 淑子・宮田雄祐 共著/ 筑摩書店1985年)


「一人の幼な子の命をどうしてこんなにも軽んじる。」
"How can you disregard a child's life like this?"

本畝 淑子 女史
Ms. Yoshiko Motoune
1947 - ?
広島県呉市 生誕
Born in Kure-city ,Hiroshima-ken

本畝 淑子 女史は「ライ症候群親の会」発起人でカルテ開示を求める市民運動の創始者。「健康を考える会」を創設して「健康ニュース」を発刊しながら、薬害追放運動に邁進。
Ms. Yoshiko Honune is founder of the Reye's Syndrome Parents' Group and the Medical Records Disclosure Movement. While founding the ``Health Thinking Association'' and publishing ``Health News,'' she worked hard to banish drug-related harm.

「6種類の薬」
 淑子は娘・寿子ともども風邪を引いて一緒に病院にかかります。「いや。このおくしゅりにがい。」町の大きな病院の小児科医に処方された解熱剤と抗生物質をしっかり飲ませます。家で枕を並べて2人で寝ていると、寿子の瞼がパンパンに腫れあがります。あわてて電話をした小児科医に言われるまま眼科を受診します。「風邪が治れば瞼のはれも治るでしょう」。「たいぎ!あたまいたい。だっこちて。」翌朝、目覚めた寿子は一言も話さず、数時間後にはけいれんを起こします。すぐに意識不明となり救急車に運ばれた病室で心音が途絶えます。特異体質でもなくすこぶる元気であったのに、37度2分の発熱で病院を受診後8日目、わずか2歳8か月という幼さで死ぬなんて、淑子にはどうしても信じられません。死亡診断書に書かれた「ライ症候群」について医師に尋ねると「原因不明なんです」。しばらくして「インフルエンザの子どもにサリチル酸系の解熱剤を使うな! 米政府警告ライ症候群の恐れ」という新聞記事が目に留まります。淑子は医師にカルテ開示を求めますが、「カルテは患者に見せるものではない」と拒否されます。淑子は弁護士を通じて裁判所に証拠保全を申し立て、1年がかりでやっと投薬証明書と診断書を手に入れます。2歳児の娘にたった1週間のうちに6種類の解熱鎮痛剤・抗生物質・抗アレルギー薬が投与されていました。

「私の子供は風邪で死んだ」
 広島女学院英文学部卒業後に英語塾講師をしていた淑子は、得意の英語を活かして外国資料にあたって、娘に投与された薬、幼児用PL顆粒(サリチル酸系複合解熱鎮痛薬・抗ヒスタミン薬)・マドレキシンドライシロップ(抗生物質)・バストシリンドラインシロップ(抗生物質)・ポンタールシロップ(解熱鎮痛剤)・アスベリンシロップ(咳止め薬)・アルメジンシロップ(抗アレルギー薬)を1点1点調査します。オーストラリアのライ博士の報告により、アメリカでは5年も前から疫学調査を経てインフルエンザや水痘にかかった子供へサリチル酸系製剤を含む解熱剤の投与は禁止、製薬会社とタイアップした乳幼児家庭への予防パンフレット配布、民間による24時間体制の「ライ症候群」相談所が設けられていることを突き止めます。それから夫と二人で日本全国の専門家の意見を聞いて回ります。日本では真相究明が遅れていました。自分の無知を悔いた淑子はガリ版刷りを初めて、毎日街角でチラシを配布します。「私の子供は風邪で死んだ」。

「ライ症候群親の会」
 淑子は貯金を下ろしてガリ版刷りを続けながら、ありとあらゆる報道機関に手紙を書き、住所を記載して読者欄に投稿、「ライ症候群」の被害者40名を探し出します。夫婦で全国の「ライ症候群」の家族をたずねてまわって共通点を調査すると、被害者は乳児から小学生で平素から元気で病気らしい病気をしたことがないこと、風邪気味また水痘で病院に行き多種にわたる抗生物質と解熱剤を投与されていること、生きのびた子供はほとんど植物状態であることを明らかにします。淑子はアメリカから専門家を招いて「第1回ライ症シンポジウム」を開催させるとともに、63家族で「ライ症候群親の会」を発足します。淑子らは渡部恒三厚生大臣はじめ厚生省に国会に、ライ症候群を薬害と認め、死亡した者および後遺症で植物状態になった子供と家族に、スモン薬害訴訟で設置された「医療品副作用被害救済法」の適用を求めます。しかし、医師は投薬証明・診断書などの作成を拒み、「何に使うんだ。警察を呼ぶぞ。」「裁判するつもりなら、絶対に出さない。」「親でも見せられない。弁護士を呼びなさい。」、厚生省は審議会を開かずに「ライ症候群との因果関係は改名されていない」「薬害はもうない!帰れ!」。

「賢い親、賢い患者、賢い市民」
 淑子は日本中の薬害また医療事故の被害者グループと一斉に立ち上がればと願いつつ夫婦で全国を訪ねて周ります。互いが他のグループを批判し罵倒する姿を見てしまいながらも、「命の尊厳という同一のテーマを有する者同士がどうして心を一つにすることができないのか?」子どもを医療被害で亡くした遺族らとともに「患者が求めたときにはカルテのコピーが取れる制度を」と厚生省や大阪府に陳情します。そんな運動の中で、淑子は大阪市立大学小児科の富田雄祐医師と出会います。「私達が緊縮症の裁判で禁じた注射液をシロップや粉薬に変えて子どもの口から与えている。」淑子は富田医師とともに賢い市民になるための啓蒙運動を開始。「明日から、病院へ行って投薬されたら、この薬は何ですか?どうして飲まなければいけませんか?と聞いてください。」「私達自らが賢い親になり、賢い患者になり、賢い市民になる以外、今の薬漬け医療から幼子の命を守る道はない。」淑子はヒロシマの地から、平和運動も反核運動も薬害追放運動も消費者運動もすべての願いは同じであることを語り続けます。「誰が寿子を殺した。おろかなこの母か。おろかなあの医者か。いやいや大人のみんなが寿子の首にてをかけた。熱が出たら病院へかけこめという愚かな認識が!熱を下げなかったら患者が来なくなるというおろかなエゴが!こんなことが二度と会ってなるものか。母さんは田舎町の片隅から叫び続ける。日本中に響き渡れと祈りつつ叫び続ける。」

-「ごめんね ひさこちゃん」(本畝 淑子 著/ 筑摩書店1983年)
-「こわいカゼ薬」(本畝 淑子・宮田雄祐 共著/ 筑摩書店1985年)
-医療情報の公開・開示を求める市民の会
-患者の権利法をつくる会
-医療過誤原告の会

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