見出し画像

Happy Women's Map 和歌山県橋本市 日本女性初オリンピック金メダリスト 前畑 秀子 女史 / First Japanese Fenale Olympic Gold Medalist, Ms. Hideko Maehata

-和歌山スポーツ伝承館 / Wakayama Sports Legend Museum

「絶望の淵から這い上がった経験こそ、金メダル以上の価値があった。」
"The experience of crawling out of the depths of despair was worth more than a gold medal."

前畑 秀子 女史
Ms. Hideko Maehata
1914 -1995
和歌山県橋本市 生誕
Born in hashimoto-city, wakayama-ken

前畑秀子女史は日本の水泳選手、日本初のオリンピック女子金メダリストです。母校の水泳指導や市民向け水泳教室などで、水泳の普及に尽力。
Ms. Hideko Maehata was a Japanese breaststroke swimmer and the first Japanese woman to earn a gold medal in the Olympics. She worked hard to popularize swimming at her alma mater's swimming instruction and citizen's swimming class.

*******

「紀ノ川」
 秀子は和歌山県伊都郡橋本町(現、橋本市)に豆腐屋の5人兄弟のたった一人の女の子として生まれます。生まれたときから虚弱で病気ばかりしていた秀子を、母親は5歳まで丸刈りにして高野山におぶって参詣しながら育てます。やがて頑丈に成長した秀子は負けず嫌いで大人しい兄さんたちを負かして泣かせるようになります。夏になると、紀の川の清流に臨む実家のすぐ裏手の妻の浦で毎日水遊びをして水を恐れぬ娘に成長します。母親は秀子に言います。「お前は体もええし、泳ぎもうまいから、ひとつ選手にならんかな。」秀子は今までの倍も川で水泳の練習に励むようになり、橋本尋常小学校4年生のときに待望の水泳部に入部します。水泳部の先生たちは手製で紀ノ川に天然プールを作成、大阪まで正式な泳ぎ方を習いに行きます。秀子は平泳ぎを選ぶと、13歳の5年生のときに大阪で開催された学童水泳大会で50メートル平泳ぎの学童新記録を更新します。14歳の6年生のときには100m平泳ぎで1分38秒という学童新記録並びに日本女子新記録を打ち出します。

「屋内プール」
 卒業後は実家の手伝いをすることになっていた秀子に、校長先生はじめ水泳部の先生たちは進学を熱心にすすめます。「天分を伸ばしてやりたい」という母親と一緒に「河童のまねなんかさせるな」と反対する父親を説得。橋本尋常高等学校に進学した秀子は、紀ノ川に天然プールに飛び込んではピッチを上げてますます練習に励みます。15歳の高等科1年生のときには100メートル平泳ぎで1分33秒2という自身が持つ日本記録を大きく更新。16歳の高等科2年生のときには、ハワイ開催「汎太平洋女子オリンピック大会」に初めて海外遠征して、重圧を跳ねのけ100メートル平泳ぎで優勝、200メートル平泳ぎで2位となります。「秀子を一人前の選手にしてやりたい」母親と校長先生はじめ水泳部の顧問たちは、日本で初めて屋内プールを学園内に作った名古屋市椙山高等女学校(現在の椙山女学園)の椙山正弌校長に秀子を託します。

「ロサンゼルスオリンピック」
 秀子は椙山高等女学校に進学。学生寮に入って学問に励み、放課後は屋内プールで猛練習する日々。まもなく母親さらに父親が後を追うように若くして脳溢血で逝去。「水泳を放棄して家庭の女となって働こう」秀子は学校をやめて小さい弟たちの面倒を見ながら、家事に店に追われて暮らします。やがて水の恋しい初夏、秀子の手紙を受け取った級友たちは募金を校長先生に届けます。名古屋市ならびに橋本市の校長先生はじめ先生たちは秀子の親類に働きかけ、秀子の兄は嫁をもらって秀子を学校へ戻します。半年ぶりにプールに戻った18歳の英子は2年に渡るスランプに陥ります。「前畑起たず」橋本小学校の後輩で自由形選手の小島一枝女史と励まし合いながら、ロサンゼルスオリンピック選手選考会にて200メートル平泳ぎで自身の日本新記録3分12秒4で1着を打ち出します。「自分はいさぎよく起とう」

「ベルリンオリンピック」
 「日本の意気を世界に示せ」「日本の力を見せてもらいたい」在留邦人の熱狂的声援が待ち構えるロサンゼルスオリンピック当日、女子200メートル平泳ぎ決勝で秀子はオーストラリアのデニス選手と0.1秒差で2位になるも3分6秒4と自信の日本記録を6秒縮めます。「よくやった」意気揚々と帰国する秀子に「なぜもう10分の1秒縮めて金メダルを取ってくれなかったんかね。」オリンピック誘致に奔走していた東京市長の永田秀次郎はじめ多くの人が責めます。「人並みに結婚したい。引退したい。」校長先生に泣いて反対され、死んだ母親に夢枕に立たれます。「最後までやりとげなさい」ベルリンオリンピックに向けて、秀子は1年365日、朝5時に起きて朝・昼・夜と3回に分けて2万メートル泳ぎます。寒い冬は陸上トレーニングの厳しい練習の日々を3年、ベルリンオリンピック選考競技会の女子200メートル平泳ぎで3分3秒6という世界記録を打ち出します。

「おしどり夫婦」
 「優勝できなかったら帰りの船で海に飛び込もう。でも泳げるから死ねないのではないか。」ベルリンオリンピック当日、世界が戦争に向かって動き出している国威発揚の期待は4年前よりもはるかに高まります。秀子はたくさんの電報とお守りの束を包んだ風呂敷を開くと「後押しして下さい。」一番上の5x15cmのお札を水と一緒に飲み込みます。3分3秒6、2位のゲネンゲル選手との差はわずか0.6秒で優勝。日本女性初のオリンピック金メダルを獲得します。帰国後の全国講演の後で校長先生から「これぞという人を選んでおいた。」秀子は、医師でスポーツマンの兵藤正彦と見合い結婚。戦時中は、出征中の夫の実家で狸の世話と養蜂を手伝います。戦後は、岐阜市内で病院を開業する夫を子育ての傍ら看護師見習いとして手伝います。目の回る日々を過ごしながら、日曜の午後は二人そろって外国映画を見に行くおしどり夫婦。ところがある日突然に夫が脳溢血で逝去、秀子は1年間をお経を読みながら泣き暮らします。

「水泳部コーチ」
 「医務室勤務を兼ねた水泳部コーチとして働いてみないか」母校・椙山女学園から誘われます。46歳の秀子は、「怪我をした」「調子が悪い」「金メダルの前畑だ」しょっちゅう駆け込んでくる生徒たちを対応しながら、水泳部の後進の育成に力を注ぎます。「1500m泳げと言われたら1600m泳ぐファイト」やがて母校から高校新記録、ローマ・オリンピック候補を出すようになり、全国から講演依頼も相次ぎます。「兵頭さんだけいい思いをして」同僚から妬みが相次ぐようになります。息子を育て上げた秀子は、「自分の好きな水泳の道1本で行こう。自由になるんだ。」名古屋市瑞穂で市営の温水プールが新設されることを耳にした秀子は、毎日欠かさず建設現場と市の体育科に通います。53歳のときに日本初「ママさん水泳教室」を開講。「母親が水泳を正しく理解すれば、自然に子供も水泳が好きになるはずだ。」

「因縁の脳溢血」
 一人の脱落者を出すことなく評判が評判を呼んで「幼児水泳教室」「子供水泳教室」「スイミング教室」と輪を広げ、オリンピック候補生を出すまでになります。アメリカ仕込みの息子による水泳コーチが秀子を大いに助けます。続いて秀子は、鳴海の温水プールで「ママさん水泳教室」「子供水泳教室」と並行して日本初「シルバー水泳教室」を開講。69歳の秀子は父母夫を奪った因縁の脳溢血で倒れます。秀子は車椅子もエレベーターも拒否して、冷たいプールの中を歯を食いしばって泳ぐように、歩行練習に階段の上り下りに取り組みます。「記録は一足飛びに出せるものではない。辛い練習を積み重ねて少しずつ記録を伸ばしていくしかない。」秀子は岐阜の温泉病院で懸命のリハビリを自らに課して麻痺を回復、再びプールに戻ります。「死ぬまで水泳をやめない。たとえプールの中に入ることができなくなってもプールサイドからみんなを励まし続けたい。」秀子は日本女子スポーツ界で初めて文化功労者に選ばれ、80歳で逝去します。

-和歌山スポーツ伝承館 Wakayama Sports Legend Museum
-椙山女学園 歴史文化館 Sugiyama Jyogakuen Historial Museum
-『水の女王前畑秀子物語』(教育思潮研究会 編 / 教育思潮研究会1936年)
-『前畑ガンバレ』(兵藤秀子 著 / 金の星社1981年)
-『前畑は二度がんばりました : 勇気、涙、そして愛。』(兵藤秀子 著 / ごま書房1985年)

Happy Women's Map
Happy Women's Map

Share Your Love and Happy Women's Story!

あなたを元気にする女性の逸話をお寄せください!
Share your story of a woman that inspires you!


いいなと思ったら応援しよう!