Happy Women's Map 旧満州 シベリア抑留を生還したロシア語通訳者 赤羽 文子 女史 / Russian interpreter who Survived Internment in Siberia, Ms. Fumiko Akabane
「女はどんなところで悲しみが待っているか分からない。」
"Women don't know where sadness awaits them."
赤羽(新姓:坂間)文子 女史
Ms. Fumiko Akabane / Sakama
1909 - 1998
旧満州大連市 生誕
Born in Dalian City, Former Manchuria
赤羽(坂間)文子 女史はシベリア抑留を生還したロシア語通訳者。大連ソ連大使館日本語教師の時にソ連軍に連行され、シベリアで10年間の抑留生活を送った後、自身が経験したありのままのシベリア生活について紹介した著書を発表。
Ms. Fumiko Akabane (Sakama) is a Russian interpreter who survived internment in Siberia. While working as a Japanese language teacher at the Soviet Embassy in Dalian, she was taken away by the Soviet Army and spent 10 years as an interned in Siberia, after which she published a book introducing her true experiences of life in Siberia.
「大好きな大連の街で」
文子は、六人きょうだいの次女として、大連の日本人小学校、中学校、大連神明高等女学校に進学。膿胸を患って肋骨を二本とる手術をして虚弱体質になった文子は、内地(日本)への大学進学を諦め、大連語学校英文科に進学して25歳で文部省中等教育検定試験に合格して英語教師の資格を取ります。やがて35歳の文子は、教え子の一人であるデンマーク領事はじめ関東州外事警察の推薦を得た文子は、大連のソ連領事館で日本語を教え始めます。国際関係を反映して日本人はソ連領事館に近づかず、日本の警察も目を光らせる中、「日本の代表として、ソ連人に日本語を教えるという、誇りにも似た気持ち」で文子は大好きな大連の町々を歩いて、ポプラ並木が美しい街路樹が放射状に拡がる円形広場と、調和した威風を保って並び立つ、イギリス領事館・アメリカ領事館・大連市役所・ヤマトホテル・を通り抜けてソ連領事館に通います。
「振袖外交」
ポツダム宣言受諾前に、突然ソ連軍が満州へ進行して大連を占拠。大和ホテルに陣取ると戒厳令を布いて、市民は夜8時以降の外出を固く禁じられます。大連の街はソ連占領軍兵士による暴行・略奪が繰り返される中、ロシア語を話せるようになっていた文子は大連市長の通訳に駆り出されます。そして、ソ連軍司令官への振袖外交を任されます。文子は配給の紺の綿繻子のモンペ姿で、ぴかぴか光る多数の勲章を肩に胸につけたソ連の司令長官・副官・部下らとヤマトホテルで対面します。「ドラスティティ」日本の青年実業家らがかき集めた美しい振袖を献上すると、長官は満面の笑みので「スパシーバ」を3回も繰り返します。その数日後、文子はスパイ嫌疑でソ連将校兵に逮捕され大連外人クラブの臨時監獄に収容されます。
「敗戦国の女の運命」
文子は2か月に渡る担当検事ウーソフの意地の悪い尋問にも明瞭に自己主張をします。ある日、尋問室に呼び出され強姦されそうになった文子は、大声で叫ぶこともできずに部屋の片隅に身をすくめます。敗戦国の女の運命に気が変になりそうになりながらも、文子は必死で自分の身を守ります。ソ連の進駐軍に日本女性が死刑にされた噂を聞きながら、文子は大勢の日本人男性らを一緒にトラックで駅に運ばれ汽車に乗り込みます。夜は座ったまま眠り、食事は水と乾パンと缶詰だけ、汽車の中で4・5日過ごします。脱走兵が銃殺されるのを横目に、新京に到着すると三井ビルの臨時監獄に収容されます。文子は1か月の収容期間に1度だけ尋問を受けます。11月7日の革命記念日には看守兵士たちが酒に酔って騒いで文子ら女性囚人に襲い掛かります。
「刺繍はじめ」
チタの監獄ではトイレに行く自由はじめ一切の自由を奪われます。朝8時に「プロヴェルガー、プロヴェルガー(点呼)」で飛び起きるとセメントの床に整列、「ズドラストウィテェ(こんにちは)」監守長の見回りに挨拶し、監房内の床を水洗い、週に1回の散歩と入浴と持ち物の熱気消毒、3度の食事は黒パンと塩漬けキャベツと塩鮭入りの野菜スープ。文子は女囚人・女監守らに頼まれ刺繍を始めながら、いつくるかもしれない裁判の日のために筋の通った文句を練って準備をします。ある日、別室に呼び出された文子に1枚の紙が手渡されます。「58条(国事犯) 第6項 姓名 赤羽文子 刑期5年 釈放される日 1950年10月16日」裁判もせずに、人定質問(被告人の身元確認)もなく、罪状の認定もなく、判決理由も示さず、突然刑を宣告された文子はショックで気力を失います。
「ロシア本の読み聞かせ」
文子は囚人列車に詰め込まれ、黒パンと生ニシンをかじりながら悪臭と喉の渇きに耐え、イルツークそしてノボシビルスクへ。炎天下の道で護送兵に怒鳴られ犬にけしかけられながら中継地点を経て、3か月後にソ連領カザフスタンのアクモリンスク矯正労働収容所(ラーゲリ)に到着。文子はこれまでの刺繍見本を見せて刺繍工場での仕事を得ます。朝6時の鐘で起床すると、朝食・昼食・小休憩を挟んで7時から17時まで仕事。食事は黒パンにスープ、たまに酸っぱいサラダ。週1回の入浴は雪の中を1キロ行進して、風呂場で脱いだ服を熱気消毒、裸のまま一時間ほど待たされた後に指先ほどの小さな石鹸と湯桶2杯のお湯で入浴を済ませ、再び1キロ行進してバラックに戻ります。夜には女囚人たちからロシア語の本を読み聞かせしてもらいます。イリヤ・エレンブルグ「第2の日」、ミハイル・レールモントフ「現代の英雄」、アレクサンドル・プーシキン「大尉の娘」、レフ・トルストイ
「復活」「アンナ・カレーニナ」、マクシム・ゴーリキー「母」。
「シベリアの美しい自然」
5年の刑期を終えて釈放された文子は、無期限の流刑者としてアスノヤルスク地区ベイ村にたどりつきます。森林伐採で生計を立てる400人の村民のうち100人が流刑人。文子は刺繍の仕事をしながら、雪かきの仕事や、看板書きの仕事、便所掃除、住み込みの子守をして生計を立てます。「ソヴィエトのために、スパイになりませんか。」というロシア人将校らの誘いを断ると、やがて託児所の仕事にありつきます。レーニングラード医科大学で学んだ流刑人アンドレーブナ女所長と一緒に暮らしながら、託児所の子育て方法を話し合い、ロシア語を習い、鍋を抱えて森の中に入って木の実やキノコを集めたり、川で水浴びしたり、魚釣りをして過ごします。文子は、深く積もった目映い美しい雪景色の中をフェルトの長靴ブアレンキを履いて音を立てながら歩き、零下40度の冷たい新鮮な空気を吸い、丸太小屋のペチカが立てる心地よい薪の音に冬の寒さを忘れ、スミレ・タンポポから次々と一面に咲く花々と遠く遠く波打つ麦とカッコオの声、森に熟す沢山の木の実、赤や黄色に色づく森で取り巻かれる茸、シベリアの四季の移り変わりとともに生きます。
「トルストイの復活」
1953年スターリンが死ぬと、ベイ村の流刑者たちが次々と恩赦をうけて故郷に帰っていきます。自分の番を待ちながら1年が過ぎた頃、ソ連の新聞プラウダ紙に日本の引揚船・興安丸がシベリア抑留者を迎えにナホトカに入港する記事を見つけます。文子はモスクワの外務省と、ソ連赤十字にロシア語で嘆願書を何度も送ります。すると、前科と流刑の全てが取り消される青色の身分証明書が届きます。無国籍扱いの文子は、本籍地・長野にいる叔父に手紙を書きます。ようやくスターリンの死後2年目、帰国命令が届きます。文子は10分で支度を整えると、厚く雪に覆われた川の上をすたすたと向こう岸まで歩いて行きます。「ダスビダーニャ(さようなら)」ハバロフスクの収容所で2ヶ月過ごし、ナホトカ港から出港して3日目にたどり着いた舞鶴港で、46歳の文子は10年振りに妹と再会を果たします。文子は兼松貿易会社でロシア語通訳者として勤めたり、ロシア研究者として活躍しながら、シベリア残留者の帰国運動に参加、同胞の坂間訓一氏と結婚。「日本人にありのままのシベリアを知ってもらいたい。一人だけでシベリアの思い出を楽しむのは物足らぬ。」
-『ダスビダーニヤ』(赤羽文子 著 / 自由アジア社 1955年)
-「雪原にひとり囚われて」(赤羽文子 著 / 講談社1975年)
-「生きながらえて夢」(赤羽文子 著 / 日本図書刊行会 1997年)
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