24. 渇望モデル 【マジックリアリズム】
30年ちかく生きていれば、街ですれ違う人にも電車の同じ車両に乗り合わせた人にも様々な事情や、背負っているものや、複雑な思いや、原始的な欲望があるのだということは理屈だけでなく感覚的にもわかるものだ。
だから、「あの人は何かワケありの感じだね」という表現が使われるとときには「ワケあり」のフォーマットに沿った行動なり身なりなりがあるということなのだと思う。
同じように、「いかにも○○っていう雰囲気だ」とか「〜らしい」も「〜っぽい」もそれをいう人のなかにある物差しやリトマス紙的な測定でカテゴライズされた結果を表現しているに過ぎない。
そういうふうに規定されたり箱に入れられたりするのが、10代のころはすごく嫌だったのを覚えている。
今では、そういう会話もお決まりの脚本のように楽しめるくらいには余裕ができたのか、それとも青臭いこだわりが解消されて惰性で会話をする力を得たのか、自分でもよくわからない。
「そんなときに、“あるある的な言い方をする人”っていうカテゴリーを作ってしまっていたのかもしれないね」
向かう途中に考えていたことを伝えると、マスターは要領を得た回答をくれた。
「そうなのかもしれない。自分だってレッテルを貼ってたんだよね。すぐに決めつける人だっていう決めつけね」
「完璧な人なんていないからさ」
煮込みハンバーグを作るというのを突如思い立ったから、今晩は自炊して夕食をとって、カフェマゼランには食後のコーヒーだけを飲みに来た。
「ほんとにね。前の会社にいたときに、すごく仕事ができる先輩がいて、性格もよくて、かわいがってくれててさ。完璧だ!って思ってたんだけど、たまたま通りかかった公園で女装してるのを見たんだ。びっくりした。わざわざ言わないだけで好きなものとか活動とかってあるよね。僕的には、先輩のその格好もなんだか素敵に見えたんだよ」
「その先輩を好いていたのもあるんだろうね」
「すごく楽しそうにしてる先輩が、会社で会うときとはまた違った感じがしたよ。翌日、一応内緒にしてねって言われたのも、なんかよかった」
「ギャップがどうとかでもないんだよね、きっと」
「うん、それとも違う」
「トニーくんは、どんな人が好き?男女問わずね」
「青くさい善人かな」
「即答。シンプルだけど、深いね」
「ぽんっと思い浮かんだ。マスターみたいな少年ぽいのに影のある人も好きだよ」
「今度は一気に表現が浅くなった」
リラックスした雰囲気が、バーカウンターのこちらとあちら一帯を包み込む。
ハンドドリップのコーヒーは、その日によって味が違う。
マスターの気分と、晩御飯のメニューに合わせて淹れているようだ。
「少年か影かでいうと、会った人はたいてい片方の印象を持つみたいなんだけど、君は同時に感じるんだね。それくらい見せてるってことかな。漏れ出てるのかもしれないね」
「少年っていっても無邪気とか純粋とも限らないし、影っていってもネガティブな意味っていうわけでもないよ」
「意外と深いのか」
「わざわざ聞くときもなかったけど、マスターって何歳なの?」
「45歳だよ」
「わあ…想定より若いとも意外といってるとも言いにくい年齢だ」
「そう言われましても…。この歳なんだからどうしようもない」
「育った街はここから近い?」
「インタビューモードだねえ。国内線で1時間くらいかな」
「修行した?料理の」
「一応ね。修行というのかわからないけど、飲食店の仕事はいくつか経験した」
ノンアルコールのカクテルグラスを滑らせるように差し出すマスター。創造する手先の、美しい造作。
「でも、ここの料理はマスターのオリジナル?」
「今までの経験がそこかしこに生きているかも。とは言っても、我が出ちゃうよね」
「下積みはきつかった?」
「そこそこきつかった。でも、後輩ができて自分の立場が上になってくると、つまらなくなってきた感じ」
「そうなの?」
「うん、渇望モデルなのかな」
「なにくそって思わないと頑張れない?」
「自分を痛めつけたいほうではないよ。ただ、ないものを求めるのがデフォルトになってたのかな」
「永遠に満たされないじゃん」
「ないものを求めるスタイルではないスタンスを求めるようになるから、大丈夫」
「名案なのか屁理屈なのか…」
「面倒くさいでしょう」
「そうでもないよ」
「ありがとう。少しだけ飲む?」
「うん、ウォッカの気分」
透き通った音、澄みきった色。
口に含んで目を閉じて、北極の氷山を感じた。
「言葉って思考に追いつかないよね」
「喋ってるより、考えてることが多い?」
「多いっていうか、速いっていうか」
「量やスピードより、変質を感じるかな」
「どういうこと?」
「言葉にした瞬間、本質から少しずれない?」
「わかる気がする。ぴったりくる表現できたと思っても、ちょっと経つと、そうでもないかもって思えてくる」
「最大限しっくりくるように挑んでるみたいな、ね。伝えるときでも、自分の内側で完結することでも」
「ずいぶんスマートに見えるのに、そういうこと考えてるんだね」
「考えるよ。でも煮詰まるから、言葉でうまくできない部分は料理とか音楽とかでね」
「美味しい内面なんだ」
「素材の味を生かして美味しく調理してるから」
「どれも自分だね、作るものも、奏でるものも」
「そう思うよ」
「できる限り忠実に。誠実に。そうありたい。自分じゃないものとして人のなかで過ごすくらいなら、自分のままで洞窟の中にいたいよ」
「大げさな、とは思わないよ」
アルコールが的確にじんわりと温かくまわり、僕は正しい酔い方をして、少しだけバーでうたたねをした。
明晰夢のなかで「これは起きたら忘れるやつだな」と思った。目覚めたら、やはり内容はすっかり忘れていた。
熱を持つ皮膚に、ひんやりと心地よい氷の感触だけ。
不思議なことに、残っている記憶は氷山の側のものだった。生き物の温かさに感銘を受ける無機物の意識も思考がクリアに起き上がってくるにつれて、情報の襞の間に滑り込んでいった。
To be continued...