伝統と文化は電気ヒツジの血に宿るのか
最近AIを使って絵を描くことを試している。使ってみるとジェネレーティブAIの得意な部分や不得意な部分が見えてくる。不得意というかまだ学習していないだけなのだろうが、とにかく現時点ではいろいろなプロンプトを試しても成功率が低いものがある。ゲームの世界や美しい景観、光る街並み、ブロンド美女を使ったモデルポーズなどは比較的簡単に描き出してくれる。ただそれを日本人というしばりをつけると途端にアジア顔になり、中国やモンゴル系の顔立ちになってしまう。基本が欧米のデータ量の多さで、マイノリティな世界の情報はまだ学習が足りないらしい。なのでアジアは一緒くたんになるようだ。せっかく架空の世界なので、日本の着物を着た女性がいろいろなスポーツ、例えばサーフィンやスノーボードなどをしている絵を、試しに作っている。質感などは世界のプロンプトのグループで勉強させてもらって、本題の着物を着て波頭でターンを決める、という部分を書き足して描かせる。だがAIには着物が左前であるとか、帯は後ろで閉めるや十二単ばりに何枚も重ねないとか、裾が広がらない。などといったことは情報がないらしい。禁止プロンプトでそれらを書き込んでも、4枚に3枚は背中側に合わせがきていたり、帯は腹の前でむずばれ、裾がドレスのように広がっていたりする絵が描きあがる。なので、これは!という絵を書き出すのに20枚も30枚も描き出すことになってしまう。枚数カウントの料金だとこれはなかなかたまらない状況になってしまう。PSで加工して修正すれば使えそうという絵は、もうすこし多くあるが、今は実験なので、そのままでOKというものを描き出すまで、プロンプトを少しずつ書き換えながら励んでいる。欧米で開発されたサービスだから仕方がないことなのかもしれない。それは時間が解決していくのだろうか?本当にAIを開発する巨大企業が、アジアや世界の片隅の文化や伝統を重んじるのかという疑問が残る。AIはうまく嘘をつく。それを見抜く目を我々は持たなくてなならない。ともすればAIが描く大量の嘘が世界の常識になり、小さな国の常識や伝統・文化はだいたいこんな感じでしょっと、書き換えられていってしまうのかもしれない。巷ではAIが暴走して人類を滅ぼすということを大声で訴える人がいるが、それは終わりの話なので、もしそうなったらどうしょうもない。終わりなのだから、、。それよりも人類の歴史が続いていく中で、そういった文化・伝統が書き換えられていくことが恐ろしい。着物の合わせなどは割と具体的なことなので、学習させることでそのあたりのルールは覚えてくれそうだが、もっとニュアンスに近い感覚を、どう伝えれば良いのだろうか、基本今のプロンプトは英語なので、日本語を英語に訳した時点で、すでにそのニュアンスはふっとんでしまているかもしれない。私が知らないだけで、すでにそういった事柄を感じられるプログラムがあるのかもしれないが、少なくとも私が使用している複数のAIにはそれはない。
伝統・文化から話はそれるが、英語に出来ない日本語として若い女性が使う。「僕は女の子だよ。」という話を聞いたことがある。普通に訳せばI'm a girl.であろうが、この僕という男子の使う一人称を女性が使った「僕は女の子だよ。」という感覚を表現するのは難しいそうだ。その曖昧な表現を表す言葉は英語のスラング的な表現を使っても、意味が変わってしまうのだろう。そのほかにも有名な京都の言葉の裏の解釈、長野と松本の確執、仙台人は豊臣秀吉がいなければ伊達が天下を取っていたから関西人が基本嫌いとか、さまざまな面に出ない歴史と伝統と文化が溢れている。当然日本だけなくベトナムにも韓国にも、その他の国にもそういったことはあるだろう。国々に対する英語が浸透している比率の問題もあるのかもしれないが、少なからずそういった部分はあると思う。例えば関西にいくのに良い東京土産は?とAIに聞くと、「とらや」の羊羹をおすすめしてくれる、東京駅限定パッケージがありますと、しかし室町時代に京都で開業した「とらや」は明治2年に東京に天皇と共に移転してきたので、京都の人は頑として東京土産とは認めないことなど、web検索でその情報をもって来れても、その気持ちをAIに理解できるようになるのは、まだ先の話だろう。
話を戻そう。なので現時点2023年の夏、そういったAIには描けない本物の絵、ここでいう本物の絵というのは、伝統や文化的背景をちゃんと考証した絵のことで、そういったもののリアルな画像は、素材サイトとかにもなかなか使えるものがない。特に海外のサービスでちゃんとした日本の素材を探すのは難しい。京都や富士山の美しい風景、スクランブル交差点の人混みはいくらでも出てくるが、人が絡むと途端に観光客が取ったスナップ的なものが多くなる。なのでそういった素材(本物)を、撮影して販売することはニーズがあるのではないかと思う。不気味の谷間のような違和感を、描かれる文化的な背景の欠如にも、感じるのではないだろうか。そういった考察を配慮した本物の素材は、人に安心感を描かせるのではないかとおもう。「ツールなので使い方しだいです。自己検証が必要です。」と多くのAIの本に書いてあるが現時点で扱う人々にその認識があっても、iPhoneなどのアプリで簡単に描き出せるようになると、その検証自体が無意味になって、AIが描き出した新常識が、常識になってしまうのではないかと思う。決してAIを否定しているのではない。企画書を書くときやデザインカンプを描くときに、基本的な部分まではある程度書いてくれるので、非常に重宝している。だがそれは、その描き出そうとしている世界のルールを、私が知っているから、間違っているところを、修正して使えるからだ。想像して欲しい。先ほどの外国、例えばカンボジアの何かを書かなくてはならない時に、AIに描かせたタタキの絵が、その国の伝統・文化・常識を踏まえているかは正直わからない。知り合いがいれば確認すればいいことでも、実際には何がどう間違っているかすらわからないので、そもそも調べようがない部分がある。先ほどの着物の裾問題とかであれば、他の写真をみて確認できるかもしれないが、そのちょっとした、でもその国の人には大事な何か、が抜け落ちた情報になってしまっている可能性があるということを、常に意識しなくてはならない。それでもありえない世界や、伝えたい企画のイメージが簡単に描けるのは楽しい。なのでこれからもどんどん使っていくと思うが、その文化伝統と民族の歴史的な要素を、ちゃんとデータ化するという試みは必ず必要になるだろう。
先日友人の米ちゃんから、ロシアのOTYKENというグループを教えてもらって毎日ヘビロテで聴いている。モンゴルに近いロシアの辺境のバンドのようだが、その地方の民族楽器を使い、自分たちのルーツに近い音楽を演奏している。だが今の子達なので、きっと子供のことから欧米の音楽を聴き、その影響も色濃く受けている。そしてシンセザイザーやサンプラーなどが世界中どこでも手に入るようになり、自分たちのルーツと新しい楽器を見事に融合させて、素晴らしい音楽を作りだしている。米ちゃん曰く「だからいま世界中で同じことが起きている可能性があるんだよ。」きっとそうなのだとおもう。伝統や文化のルーツがあって、そこに新しい技術が乗っかっていく。それが今のAIに欠けているものなのかもしれない。先に技術がありそこに心のありようを載せていくのは、骨の折れる作業になりそうだ。伝統芸能の変化をよしとしない人たちも多数いるだろう。別に全てを変える必要などなく、そういった1面も見せて良いのではないだろうか。かなり偏見だが、歌舞伎も能もtopの実力をお持ちの方は、比較的新しい試みを試行錯誤されているが、そうでもない人や一部の客が、そういった試みを否定してるように感じる。表現は無数にあって時代によって変化していって当然だとおもう。その文化を忘れてしまわなければ、、、。自分のやっていることを大きな棚に上げて言わせてもらうと、お坊さんのお経とJAZZのコラボとか最近多くありますが、そういう企画の組み合わせではなく、テクニックがいくらあってもそこに本当の文化・伝統のルーツがなければ、私の心を飛ばすことは出来ない。おしゃれだけでは成立しない何かがそこにある。web3で合議制で、みんながリーダーになれる世界で、世界中のプロンプターが、その気軽に使えるAIを使って、自分のルーツと向き合いながら、新たな伝統を作り出す日が来るという、ポジティブな未来を夢みて。
AIの「みんなが英雄」を聴きながら、、、