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橋を渡る

橋を渡ると、いつも考えてしまう。あの世へ行く時も同じ景色を見ているのだろうか、と。
 
日曜日に、幕張海浜公園に行った。4歳長男と2歳長女、3ヶ月の次女も一緒だ。公園で少し遊んでアウトレットへ行く予定だった。駐車場付近にはバーベキューができる広場があり、隣接する広大な芝生を横切ると、子供用の遊具がある場所に行くことができる。

ただ、長男は遊具の数が多くなかったこともあり、すぐに飽きてしまったらしい。「冒険に行きたい」と言い出した。アウトレットから遠ざかるのは嫌だなぁと心では思いつつ、時間があるので付き合うことにした。

遊具の置いてある場所から少し離れたところに、鬱蒼と茂る森へと繋がる橋がある。橋の両側には花壇が並び、手入れしている人の几帳面さが伝わってくるほどに整えられていた。色とりどりの花たちが橋を飾っている様子は、向こう側に見える渡った先に広がる深い緑色とは、皮肉な程に対をなしていた。
 
長男に手を引かれて、長女と橋を渡る。森を抜けると、若者の喧騒で賑わうバーベキュー会場やピクニックで埋め尽くされた芝生とは打って変わり、穏やかで凛とした日本庭園が佇んでいた。人数は少なく、老夫婦が散歩していたのみだ。桃紫色が美しい芝桜も見ることができ、目を楽しめることができる。

大量生産をし続ける工場からそのまま出てきたかのような、巨大な建物が並ぶ郊外。まるで誰かの忘れ物であるかのように、唐突に桃源源郷があることに違和感を感じつつ、その清廉さに惹き込まれてしまう。聞こえるのは長男と長女の声と、木の葉がこすれる音だけである。雑音にまみれた日々の中で、彼らはこんな声をしていたんだっけ、と、ただ佇むのみであった。

子供は様々な景色を見せてくれる。人の醜い面であったり、良いものばかりでは決してないが。子供が連れてきてくれなかったら遊具で遊んで、すぐにアウトレットへ向かっていたことだろう。予定通りの人生を生きて、予定通りに行くと安心する、いつの間にかそんな毎日になってしまっていたのかもしれない。長男から「冒険に行こうよ」と言われた時、正直「予定かが狂うなぁ、嫌だな」と思ってしまった。枯れていく木のような心の持ちようである自分を、省みる機会となった。

帰り道、橋を渡りながら振り返ると、そこには楽しそうに花を摘む長男と長女の姿があった。自分が彼岸に行く際に見える景色と重なり、注意することも忘れ、しばらく動くことができなかった。私が彼岸に行く際も、出来れば今みたく笑っていて欲しいものだ。勝手に花を摘むという行為はいけないことだけど、叱責する声は、その時はもう、もう届かない。

何かの映画で、男の子が冷蔵庫から出した牛乳にそのまま口をつけて飲んで、「しまった。ママに怒られる」と思い、直後に「いつも注意してくるママは、もう死んでしまったのだ」と思い直すシーンがある。そんなものなのだ。日常の中でぽっかりと空いた穴を以て、人は死者を想う。空洞は徐々に塞がっていき、ゆっくりと忘れ去られていく。不在をして故人を想うとは矛盾した行為に思えるが、全てが理路整然とした花壇のようにできているわけではないから仕方ない。思想まで判子で押したように、同じようなビルにまみれてしまってはたまらない。

幸いまだ生きているので、彼らと冒険をして、行き先の分からない橋を渡り続けようと思う。今は私が彼らの手を引いているが、いずれ手を引かれる日があるのかもしれない。自分が手を引いていた過去と、手を引かれる現在。二つの記憶が、走馬灯のように交差するのであろうか。いつか本当の橋を渡るその日にしか、答えは分からない。

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綾部まと
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