他人軸、自分軸
ずいぶん前に途中まで書いて下書きしてた記事を読んで、その頃の自分と変化があることに気づいたので書き足してみた。
【下書き】
他人軸とは
自分の人生のハンドルを他人に委ねていること
自分軸とは
自分の人生のハンドルを自分で握ること
自分に責任と覚悟を持つこと
私の中ではそんな解釈をしている
私自身、長い間他人軸で生きてきたと思う
なぜ他人軸になってしまうのか…
それは幼い頃からのいろんな環境でそうせざるを得なかった…ということもあると思うけど、ふり返ってみると、他人軸でいることのほうが楽だったのかなと思う
他人軸でいることは、すべてが相手次第
だから何か自分にとって不都合なことがあったときには人のせいにする
あの人がこうしたから、あの人がこう言ったから、あの人のせいで私はこんな目に遭ったと、自分にとっての不都合は人のせいにしていたと思う。。。
何かを決断、判断する時に、自分で決めずに人に任せていた方が楽だし、何かあっても自分のせいじゃない
無意識にそう思っていたのかもしれない
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ここまで下書きしていた記事を読んで
なるほどそんな風に思っていたのかと、なぜか第三者的な視点で見て、確かにそう思ってたなと自分を振り返る反面、なんとなく何かしっくりこない気持ちが残った
世間一般ではよく
他人軸ではなく、自分軸で生きよう
というようなことをよく言われるけれど
私はその言葉に
「他人軸で生きてきた自分はダメなんだ」と
どこかで自分を責めていたように思う
そしてなんとなく
他人軸で生きるのはわるいこと
自分軸で生きなければいけない
という気持ちがずっとあった
自分がどうしたいという気持ちよりも
相手の気持ちや空気をよんでまわりに合わせていた
確かに
人の言いなりになって苦しかったり、人に合わせて疲弊したり、他人軸で生きることで自分を見失っていたこともあった
だから、『自分軸で生きる』という言葉に惹かれて、自分のダメなところを直そうと頑張ったり、もがいたり、自分というものがよくわからなかったから、自分を知りたくて、色んな学びもやってきた
そんなことを思い出しながら
でもなぜ他人軸で生きることがダメなんだろう?あんなに苦しかったのだろう?このモヤモヤはなんだろう?と自分に問いかけていたら
他人軸でも自分軸でも
それを決めてるのは自分自身
結局はどう生きても自分次第
そんな言葉がでてきた
そう思ったとき、全ては自己責任ということが腑に落ちた
他人軸で生きるというのは、自分に責任を持たないから、責任は人のせいする=それは被害者意識で生きるということ
だから苦しかったんだ。。。
でも
選択を人に委ねる選択をしているのは自分自身
だから選択を人に委ねた時点で相手が決めたことには自分にも責任があるということ
つまり、どんなことも人のせいではなく
自分の責任だということ
それに気づいたとき、今まで人のせいにして生きてきた自分がとっても恥ずかしくなった。。。
こんな自分を受け入れ難かったけど、これが今までの私
でもこれに気づけて、これからは全て自己責任で生きると決めたら、人を責めることが少なくなった
すべては自分次第
といっても
まだまだ人のせいにしそうになることもあるけれど、その度に自己責任の意識に立ち帰れるようになった
今あえて自分軸、他人軸という言葉を使うなら
自分軸とはすべては自己責任で生きること
他人軸とは人のせい(被害者意識)で生きること
でも究極のところ他人軸でも自分軸でもどう生きたって人はみんな自分自身で何事も決めているということ
どんなことも自分で選択できるということ
選択権はすべて自分にあるということ
それを一人ひとりが自覚して生きることができたら、被害者意識で人を責めることなく、お互いを尊重し合える世界が作れるのかもしれない
自分軸、他人軸から大きく話が広がってしまってまとまりのない話になったけど、そんなことをふわふわと考えた
最近いろんなことがあって、今まで学んできた知識(点)が、線として繋がっていってる感覚がある
それをまとめたり言葉にするのがとても難しいけれど、自分の言葉で少しずつアウトプットしていきたい