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内面と向き合うと楽になる
外側の世界。
私たちが、現実と思っている世界。
そこで、嫌なことがあると、外側を必死にどうにかしようとする。
でも、内面に向き合うと、外側がスルッと変わるのです。
それを最初に実感したのが、カウンセリング勉強の時のこと。
それまでは、自分の本音は、お酒を飲まない限りは、出ない、出さない、ものだとどこかで思ってた。だから、お酒の席では、「無礼講」という言葉が許されるのかな?と思っていたぐらい。
でも、カウンセリング仲間と毎週のように練習していたら、「こうやって、なんでもジャッジせずに聞いてくれるなんて、なんて楽なんだ!」と感じるようになって、しまいには、お酒に頼って話す必要性がなくなりました。
(⇒外側の現実:本音を話すのにお酒はいらない)
もちろん、仲間との共感体験がものすごく、役に立ったというのもあるけど、カウンセリング技術が、使いやすいものだったからというのはある。
人様に、提供できるほどのスキルと資格は得られなかったが(要は技術不足で、カウンセラーになれなかったということ)、セルフカウンセリングには、非常に役に立ったのだ。
◆嫌なこと、ネガティヴなことがあった時こそ
個人的には、セルフカウンセリングができるようになったものだから、嫌なことがあった時、感情が揺さぶられている時、カウンセリング技法を使いながら、本質的欲求を発見する。
深いカウンセリングだと、そこから、過去に遡ってその感情が発生した時の状況を癒したりするのだが、私の感覚では、癒しの技法をやらなくても、本質的欲求に気づけたら、おおかた癒される。
むしろ、ご機嫌で生きている時より、悩みや嫌なことがある時の方が、自分の中の癒しが加速化するから、嫌なこと、ネガティヴな体験を、あまりネガティヴなものと思わなくなった。
むしろ、「おー!よくやってきたな」と迎え入れる気持ちすら湧いてくる。
◆現実と言えるものに
ネガティヴだけ、ポジティブだけ、ということはない。
それが、ようやくわかってきたのは、今年のコーチングコミュニティに入ってから。
もちろん、それまで本田健さんの、ユダヤ人大富豪の教えなどで、ポジティブに偏れば偏るほど、ネガティヴな相手を引き寄せるなどの知識はあったと思うよ。
でも、物事に、ネガティヴだけ、ポジティブだけ、ではないことが、腑に落ち始めたのは、先ほどにも書いたように今年になってから。
個人的には、その大元になる、ディマティーニメソッドには、形を変え、場所を変えて触れていたと思う。
もし、現実が思うような現実でないのならば、それは、自分の内面と外側を統合してないから。
統合ってなによ?って思うかもしれない。
私は、耳が悪い。特に左側は、話しかけられると、音としては聞こえても、言葉として聞こえてこない。
普通に考えたら、「難聴」ネガティブな要素に思うかもしれない。
でも、耳が良くないことで、外側の無駄な音・声を拾わなくて済むという、メリットがある。
いわゆる、変な噂話、陰口が意識として入ってこない。
結局「耳が悪い」という事実だけで、そこには蓋を開けてみたら、ネガティブも、ポジティブも両方含まれていて、統合される。
逆を言えば、私の内面が、「噂話でも、陰口でも、なんでも聞くぞ。もっと器の大きな人になるぞ」となっていたら、外側に違う現象としてやってくるかもしれない。
今は、まだ、そこまで人の言葉を全部受け止めきれないから、耳が悪いという現実(外側)を作っているのかもしれない。
こんなことは、こじつけかもしれない。
でも、自分の感覚なんていうものは、他人が判断できるものじゃない。
それが、「もっと、人の話、人の声に耳を傾けたい」「自分だけの声には飽きた」となれば、補聴器でもなんでも買ってでも、なるのだろう。
というのも、大概の緊急時には、文書になる前に、音声での放送がほとんどなので、何か災害があったりしたら、私は不安で、堪らなくなったりするだろう。
ま、そうなっても、近くにいる誰かに、「今の放送の内容なんですか?」とか聞いてやり過ごしてしまいそうだが。私の内面はまだ、世の中の雑音を聞きたくなさそうだ(苦笑)
◆この世(現実)は、氣づきの為に映し出される世界
そうやって、考えると、この世で起きていることは、現実を通して、自分の内面を見ていくと、「両方あるな」と感じるわけです。
例えば、また、私ごとで申し訳ないのだが、私は結婚していない。
ご縁が無かったと言えばそれまでだろう。
でも、40代に突入して、家族からの介護から解放されて、まず、望んだのが「一人になること」でした。
誰かと一緒に生活して、合わせる、助け合うことよりも、「一人になる」ということを強く体験したかったのでしょう。
今は、一人でいることのメリットデメリット、両方しっかり感じていますが、これを感じ切るまでは、一人でいると思います。
何が言いたいかというと、家族と過ごしていた時は、介護が必要なときは否応なく、食事の支度とか、ちゃんとやっていたし、それなりに一通りはできていただろうと思います。
でも、一人になってみたら、食事の支度などは、苦痛で仕方ない。
結局は、適当な食事か、出来合いモノを買ってくるなど、してしまう。
家族と一緒にいた時は、出し殻のふりかけを作ったり、残り物をリメイクする料理とか、自然とできていたのに。一人になってみたら「身体に良いこと」の前に、そもそも、そこにエネルギーを掛けたくない自分に氣づく。
まぁ、そういったことをやってみたかったのでしょう、と今は思います。
私は、小さい頃から、自分を中心に置いていない感覚があって、それも嫌ではなかったけれど、中心に置くことを味わってみたかった。
それを実践中ということ。
なんとなく、伝わりますでしょうか?
今、あなたが結婚して子育て中なら、それを「やってみたかった」でしょうし。
パートナーとうまくいかなくて、離婚協議中であれば、それを「やってみたかった」わけでしょうし。
人それぞれに、「今、大変!」と思うようなことでも、心のどこかでは「あ、これ、やってみたかったことだ」となるかもしれません。
その、心のどこかにある、「やってみたかったこと」を内面を掘り下げていって見つかった時、「もういいや」と、自然と外側も変わっていく。
◆内面を見るのは、怖い、しんどいと思うかもしれないけど
とはいえ、その内面を見るというのは、慣れてない時は、私も怖かったもの。
カウンセリングの勉強を早いうちに体験したからこそ、「内面を見て、ギョギョッとする」という怖さがあるのでは?と思ってた部分が早めに解消できたのは、良かったと思っている。
偉そうなことは言えないが、社会人人生の中で、全部で15社くらいかな?正社員型派遣という形で、顧客先常駐していたことも含めて、それぐらい会社を見てきましたが、その中で、「ブラックだなぁ」と思うところもあれば、「ホワイトだなぁ」と思うところもあり。
経験を積みたいなぁと思えば、ブラックだし、人間関係はホワイトでも金銭面はブラックということもありました。
若い頃は、わからなかったけど、それも引き寄せだなぁと。
成長させてみようと、思ったら、成長の為に、ドドーンとキツイお試しが来るし、キツイキツイ言いながらも、その体験に、喜んで、どっぷり浸かっていたりするもの。
それは、今だって変わらない。
今の状況が100%満足か?と言われたら、全然ダメ!と思う部分はある。
では、なぜ、全然ダメ!という現実が残るのか・・・それは・・・
◆心底ネガティブ、嫌なことがあった時は
本気で、「嫌ーーー!」という強いエネルギーが出る。
そうなると、もう、その現実からは、断ち切る動きになってくる。
もし、本氣で、その出来事に対して「嫌ーーーー!」とならない限りは、ズルズルと、ネガティブな体験がいつまでもやってくる。
だから、先ほどの「全然ダメな現実」も、心のどこかでは、「まだ、これでもいいや」という部分があるということ。
内面って、面白いもので、本氣で思ってない限りは、こっちが(私たち自身の顕在意識が)氣づくまで、「これでもか、これでもか」とネガティブ体験を寄こしてくるんだよね。
なんていうんだろう?
本当は、きれいな身体にしたいのに、泥を投げつけられる感じ?
でも、闇が無ければ、光に気づかないというのと一緒で、綺麗な現実を作りたいから、それに気づくために、泥を投げつけて、「この泥はもう嫌ーーー!」と言わない限り。本当の意味で「身体をキレイにしよう」という現実がやってこない。
現実の作り方って、面白いですよね。
キレイにしたい、キレイにしたい、と思えば思うほど、泥がやってくる。
「もう、泥はいいんです。私はキレイなんです」と意識を向けた瞬間、泥がパタッと剥がれて、キレイな肌が出てくる感じ。
まるで、泥パックのように、泥は、全然汚いものじゃなかった!?というぐらい、あれ?きれいになっちゃった、となる。
それが現実化ということ。
この原理が分かってしまえば、自分で、嫌な想像をして、それは、嫌ーーー!と先取りして、「No!」とエネルギー場にぶつける。
それと同時に、プラスの望む方向をリアルにイメージして、それもエネルギー場にオーダーする。
これがセットになると、強いのだろう。
成長しようと思ったら、お試しが来る。
それは、お試しを乗り越えないと成長しないから。
でも、人は成長じゃなく、成功だけをオーダーするから、「成長なくして、成功はなし」を理解してないと、お試しが来ただけで、卒倒しちゃう。
そして、そこをグッと踏み込んで乗り越えたら、成長に繋がるのに、「我慢は嫌だから」とせっかくの成長、お試しから逃げちゃう。
それは、安易な成長を望んで軽く考えすぎてたということ。
最近は、圧倒的に努力する派と、「我慢しないの」といって努力を放棄する派に分かれている気もしなくはない。それが二極化と言ったら、そうなのかもしれない。
山に登るのは、山登り自体、道中が楽しいのもあるだろうが、登り切ったあとの景色の爽快感。
でもなぜか、人は、爽快感だけを望んで、険しい山登りを拒否しようとする。
それだと、いつまでたっても、爽快感にたどり着かない。
だって、セットだもの。
それをヘリコプターで飛んで頂上に行ってみたところで、同じような爽快感は、きっと味わえない。
人生も同じもの。
◆内面を見るのは、薄皮を1枚1枚、剝がしていくようなもの
山登りだって、そうだろう。
一足飛びに登ることは、できない。
一歩一歩、足を前に差し出すだけ。
内面もいきなり、全部、剥がしたり、脱がしたりするものではなく、1枚1枚剥がして、本当の自分に近づいていくこと。
その本当の自分が、うま~く、現実(外側の世界)を作っていることを、学んでいくこと。
それが、この地球(テラ)での遊びなのかもしれないなぁ~。
私たちは、嫌な現実を見させられていると、思っているかもしれない。
でも、嫌な現実さえも、【氣づく】ための、アトラクションだとしたら、凄くないですか?
嫌だと思ってたことさえも、「愛おしく」なりませんか?
この謎が解けた瞬間、「よくできているなぁ~」と思うかもしれませんね。
だから、タイトルの「内面に向き合えば楽になる」は、【内面(=自分自身)がこの世を作っていることに氣づく、理解する】ことなんですよ~、というところ。
とはいえ、内面に向き合うこと自体は、楽じゃないけどね。
というか、向き合うことすら、忘れて、外側に目を向けてしまいがち。
そして、外側を見て、悶々としてしまう。
学校の義務教育に、学問の修得ばかりが、取り沙汰にされているけど、内面の向き合い方レッスンも、年齢に関係なく義務教育化されればいいのにな。
とはいっても、世の中(外側)は、そんなこと望んじゃいないだろうけど。
まぁ、こういう文章をここまで読める人は、薄々氣づいているから、読んでくれているのだと思うけど。
私の文章は、若干長めに書いてある。
気楽に読める感じではない。
だからこそ、響く人と響かない人、思いっきり分かれる。
それでいいと思っている。
あなたの人生のヒントになれば、幸いです。
あなたの人生が良くなるよう、心から応援しています。
今回も記事をお読みいただきありがとうございました。
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