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父の文集

実は、ここ2ヶ月ほどいろんなことが手につかなくなっていました。今年の暑さに参っていたことも大きいかもしれませんが、特にこの1ヶ月は、体調も自分の状況も目まぐるしく変化して、いろいろやることはやっていたのかもしれないけれど、何をどうやっているのかよくわからないような感じでした。いろいろなことが起こっているのに、何もしないまま時間が過ぎていったようにも感じます。やらなきゃいけないことはたくさんあるはずと思いながら、まるで手につかない感覚。なんだか、自分だけがスローモーションで生きているみたいです。特に、今は、10日前に父が倒れ、余談を許さぬ状況が続いているので、実家に帰ってきて母と2人で待機しながら、落ち着かない気持ちのまま、ぼんやりと時間を過ごしています。とはいえ、少しでも何か日常的なことをやった方がいい気がして、数日前から母とご飯を作って食べたり、掃除をしたり、実家にいながら日常らしいことをしはじめました。

30年前に実家を出た時に放置したままになっていた私の荷物も少し片付け始めました。高校卒業と同時に家を出た私の机の引き出しや押し入れからは昔懐かしいチェッカーズのレコードや、プリンセスプリンセスのCD、高校生の時に大切にしていたOSAMUグッズの文房具などが出てきました。30年の月日とは本当に長い時間で、大切にしまってあったそれらの物ものは劣化してボロボロです。ほぼすべてゴミにするしかありませんが、私の記憶からすっかり無くなってしまった私に出会うようで、なんだかとても不思議な気持ちになります。

高校生だった私が、もはや更年期を迎えるぐらいの時間が経ったのですから、父ももちろんその分年齢を重ねてきたのは当たり前なのですが、私は、まるで父が浦島太郎の玉手箱を開いてしまったように感じています。母方の祖父が長生きしたので、父を見送るのはまだ先だと思っていましたが、よくよく考えれば父も父方の祖父母が亡くなった年齢になっているのです。今回、なんとかこの山場を乗り越えてくれればと思いますが、手術をしてくださった医師から一昨日伺った言葉からは、ある程度覚悟が必要であることを意識させられました。

父はとにかく友人が多い人で、定年退職後も友人たちと様々な活動に忙しくしていました。友人たちとやるゴルフが大好きで、日本の在来種のタンポポを守ろうとタンポポを育てる活動をしたり、囲碁をやったり。とにかく、友人とのつき合いを大切にしていました。倒れた日の午前中も、友人たちと一緒に作っている文集の編集をしていたようです。80代を目前にした父ですが、友人たちの中では、唯一コンピュータを使う人間だったようで、皆が手書きで書いた原稿をWordに打ち込んで二段組に構成するなどのコンピュータ作業を一手に引き受けていたようです。

救急車で病院に行き、心筋梗塞を起こしたことがわかって入院が決まり、緊急手術をする直前にも父は、この編集作業のことが頭にあったようです。母にとにかく一緒に編集作業をしている友人に連絡しておいてくれと言ったそそうです。言われた通りに母が連絡をすると、この文集を立ち上げた父の友人は、父がいなければもはや文集を発行することは不可能だと、8年間続けてきた文集の廃刊を決めました。しかし、編集作業が途中になったままの56号は、ちょうど文字校正がすべて終わったところ。しかも、この号から父が友人から編集長を引き継いでやっていくことになっていたらしく、ゲラを見ると編集後記にはその意気込みが書かれていました。それを見た母がなんとかこの号だけは仕上げてやりたいと言うので、私がそれを引き継いでやることにしました。父の友人に聞きながら、校正したものをデータ上で修正し、プリントアウトしました。それから、父の代わりに私と母が加わって、父の友人たちと一緒に手作りで製本作業をして仕上げ、会員のみなさんに発送しました。

手作りの製本作業中、一緒に作業をしていた父の友人たちが父と全く同じような話し方をするのに驚きました。まるでそこに父がいるような錯覚に陥るほどです。私が、プリントアウトをしている時に紙が足りなくなって買いに行き、1件目のお店にはB4の紙がなかったことを話すと、そんな店はけしからん、日本人は日本のサイズを使うべきなんだ、だからこの文集もB判サイズにしたんだと、父の友人が話します。それはそのままそっくりうちの父が話しているようでもあり、あまりの激似ぶりにおかしくなりました。また、長年、私は、家族の中で父だけがほんの少し違う方言を話すのを不思議に思っていましたが、父の友人の言葉を聞いて、父がこの友人たちから大きな影響を受けていたのだとわかりました。加えて、父の友人たちの言葉からは、家では昔ながらの家父長然とふるまう私が知っている父とは違う父の姿が見えてきます。聞いていると、父の話だけれど、父のことではないようで、とても不思議な感じがしました。

最後となった文集には、父は甲子園をテーマに文章を書いていました。高校野球の名監督と言われる人のあるべき姿についての、天邪鬼なうちの父らしい皮肉がたっぷり込められた批評です。そして、今、父の出身高校には、別の高校でチームを甲子園に導いた監督がいらっしゃるとのこと、進学校だから期待できないだろうと言いつつ、それでも母校の野球部が甲子園に行くことを期待していることが綴られていました。

もし、父の意識が戻ったら、「こんなむしいがにして、もっとちゃんとやるがやったがに勝手にやってしもて、何してくれるがよ」と怒られるかも。でも、揃っていなかったページ設定も直したし、ちゃんと文集の期日を守って、最後まで仕上げてみんなに送ったんやからね、ちょっとは感謝しられよね、お父さん。








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