#1000円には1000円以上の価値はないのか。
こんにちは、こんばんは。
バティック女子のアミです。
普段は大学生してます。
バティックというインドネシアの伝統的な布が好きなので、自称バティック女子と名乗っております。
ECサイトなどで販売してたりするので興味ある方はどうぞ〜。
今日のテーマは、お金
というよりも自分が受け取った価値を表現する方法についてです。
今回は時間を決めて書いているので短めだと思います〜
1.今のお金の立ち位置(個人的な意見)について
お金という存在は資本主義社会を生きる中では大変重要な役割を持っているモノです。
そして、お金とは受け取った価値に対しての等価交換できる材料として現代は使われています。本来であれば、物々交換でも良いわけですね。(双方向に利があれば)
そのような存在のお金の価値観、基準は年々極端に考え方が別れているように感じます。
最近よくあるのは、お金×自己表現×サービスです。(この言葉はあんまりしっくり来てません。)
お金を出すところに自分の思想や生き方を表現しているということである。
例として、クラウドファンディング(以下クラファン)である。
私は応援経済を推進させたあのプラットフォームサービス(以下PF)はとても画期的だと思います。潜在的な応援を必要としている所があのPFを用いるだけである程度顕在化されるからです。格差が生まれるのはありますが。
クラファンは私が思うに、自己顕示、承認欲求のようなものでまとわれていると思います。サービスを応援することによる満足度、善良なことをした、あるいは、思想の表現などがあると思います。
このような考えがなかったという訳ではなくて、最近加速しているという感じですね。
近年クラファンは割と周知され、応援経済の思想も普及してきていると思います。
よってお金の持つ幅が広がってきているということです。
2.お金によって左右される価値
上記にも述べたように、資本主義社会においてお金は、互いに利があると共に、全員の共通認識としての基準がなされているから測り易いものです。
故に一辺倒なお金だけに固執されてしまうし、お金の基準が圧倒的につよくなってしまう。
1000円には1000円の価値があるとされる何かがもらえる。
=1000以上の価値に”それ”はならないこと
これに疑問を持つことがなくなるのではないか。
本当に1000円に対して1000円分の価値しかないのか?逆もしかりだ。価値の感じ方は十人十色だが、私は前者の人のようにプラスに考えたいし、正当な価値を自分で考えたい。
そして、このように1000円以上の価値を感じたとしても、それを表現する機会がない。価格以上を払うという発想がそもそも根付いていないものある。
そして、それは今の所お金でしか表現ができないところにも、私は疑問を呈したい。
ただ、近年では価値を表現できる場ができている。
一歩も二歩も先をいくような思想だと思います。
このような流れは必ず来ると思ってます。
自分が思う価値がそのまま表現される時代です。
3.なぜこんな話をしているか?
理由は単純明快で、私がこのようなサービス・思想・流れをアパレル業界でつくろうとしているからです。
とても実験的です。なにせ誰もわからないところだからです。
ただ商品を買うことに対して徐々に熟考してほしいのです。そして、その商品を買った責任を持ってほしいんです。(激重ですが)
アパレルの所以は根底に日本のアパレル産業がこのままではなくなるという現状があるからです。(現段階での日本での服の生産率は2〜3%と言われています)産業がなくなるって結構深刻なところだからです。
アパレルだけが窮地に陥っているわけではないので、あくまでも概念的部分を伝えていきたいところです。
以上
おわり
みなさんのお金の基準はどこにありますか?
みなさんはなぜその商品を買ったんですか?
そこにあなたの思いはありますか?
安いものを否としている訳ではなく、そのお金の意味を問いたい所なんです。
最近パートナーの子が山口周さんの本をおすすめしてくれて読んでいます。
飽和している世の中での贈与の考えだったり今まで見ていなかった切り口を教えてくれるので興味があれば!
あと逆に本とか教えてほしいです!
はい。
近況報告兼問題提起みたいな感じです〜。
あいも変わらず読みづらい文章かと思いますがありがとうございました。
ばいばい
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