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遅刻について

1年1組 葉比 慕緒久

「すみません」
とりあえず謝る。
「また遅刻か、何度目だ」
「すみません」
正直覚えていない。今までに食べたパンの枚数を覚えていないのと同じように。
「すみませんじゃなくて。前回もそうだったな、前のときも謝って、それで結局これか」
「すみません」
「はあ……。これまでは見逃してきたが、今回はそうはいかない」
「はい」
「先生も怒りたいわけじゃないけど、もう仕方ない」
「はい」
「いいか、遅刻がなぜいけないのか、わかるか?」
「……そんなに、よくわからないですね」
「だからするんだろうな」
「そうですね」
「そうですねじゃねえよ」
「すみません」
「いいか、まず遅刻は、待たせている人の時間を奪うんだ」
「……はい」
俺に言わせれば、「俺の」時間なんてものはない。だから、「私の」時間もないし、「僕の」時間も、「貴方の」時間もない。だからこの人の言っていることは可笑おかしい。時間が誰にも所有できないのであれば、それを一体どうやって奪うというのだろうか。差し上げる時間もなければ、奪われる「私の」時間もないし、「貴方の」時間も誰に盗られて、誰が使って、誰が捨てるようなことも決してない。だから、「あなたの」時間が魅力的に、例えば、美味しそうに見えることもない。だって、「あなたの」時間なんてものはないのだから。俺の時間も、遅刻されている誰かの時間も平等に過ぎてゆくだけだ。


「そうやって、遅刻を続けているとな、癖になるんだよ。毎回の約束のときに、会議だとか遊びの待ち合わせとかでも、遅れてしまって、誰かを待たせてしまうことになるんだよ」
「……なるほど」
癖になることの何がいけないのだろうか。俺に言わせれば、「継続が大事」、「続けることは大切」とかいう文言はどこでもいつでも聞くし、もっと言えば「何かを続けられることは才能」「継続は力なり」「続けることは何よりも難しい」なんて力強いメッセージも見聞きしたことがある。それはしかも俺だけじゃなくてみんなあるはずで、そこらを歩いているオリンピック選手に、大事だと思うことは何だと思いますかと、訊いてみればいい。必ず一人は「継続」「続けること」だと言うだろうに。なんで、癖づけることがいけないのか。
「遅刻っていうのはな、悪いことなんだ」
「……はい」
なるほど遅刻は悪いことだから、だから続けてはいけないということなのか。けれどもさっきも言った通り、遅刻をして相手の時間を奪ってしまうなんてことは決してないわけで、そうなると、では遅刻の何が悪いのか判らないじゃないか、と俺は思う。さらに言えば、遅刻することが、もし、その人のルーティーンだった場合はどうなるんだ。それは、その人にとって最高のパフォーマンスをするための欠かせないことであって、その人にとっては良い事になる。要するに、継続する行動は、誰かしらから見ても明確に良い事であるというわけではないかもしない、ということだ。遅刻がルーティーンの場合だったり、毎日カレーを食べることが体調を整える秘訣だったり、靴は左から履いたり……。ただ聞いただけでは、こんなものたちは、それを自体が手放しで賛美されるほど良い事であるとは思われないだろう。俺たちはそういう「継続」のうえに居て、そこから離れて、遅刻だけを否定することは、まったくお門違いだろう。


「聞いてるか?」
「あ、はい。きいてます」
「何しろ遅刻は、待っている相手が嫌な思いを——」俺に言わせれば、その「待つ」ということが大きな捉え違いなのだと思う。待つ、待っている、待たされている、こう思うからこそ、「私の」時間が奪われているなんていう思い違いをしてしまうし、退屈であると思ってしまう。先ほども言った通り、時間は誰であっても平等に過ぎゆく。精神と時のなんちゃらのようなズルをしない限りはそうだろう。であれば、そこには能動的に係わる以外選択肢はない。つまり、何かを待っている時間はすべて、「待っている」のではなくて、何か別のことに取り組んでいる時間に置き直せるのである。例えば、待ち合わせ相手から30分の遅刻を言い渡されたとき、その30分は待ち時間ではない。スマホゲームができる。本が読める。ネットショップを物色できる。1時間なら、YouTubeで少し長めの動画でも見ればいいし、2時間なら映画が見られるだろう。今は多数のサブスクリプションサービスがある。使わない手はない。4時間ならそのまま映画を2本見られる。続編が出ている作品ならばありがたいぐらいだろう。6時間なら、集合場所の周辺をひと通り見て回ることができる。半日なら、さらに丁寧に楽しめる。1日なら、一度帰って英気を養っていいし、1週間ならば言うまでもない。1年なら、何か料理でも練習して振る舞えるようになればいい。10年なら、留学でもしてバイリンガルになってしまって驚かしてやればいい。誰もが思う「待ち」時間というものは、本質的にそういうものなのだ。


「とにかく、遅刻はしないほうがいいんだから」
「……まあはい」
「なんだそのふてくされた返事は」
「いや——」ここまで述べてきたことを踏まえれば、遅刻をしないほうが良いなんてことは言えないはずだ。しかも遅刻が必要な場合だってあるだろう。それは少女漫画だ。
少女漫画には遅刻が付き物だ。こう思うのは俺の少女漫画観が多少古いことも関係あるかもしれない。そもそも読まないからかもしれない。しかし、そんなことはどうだってよくて、大切なのは、少女漫画と遅刻の結びつきを聞かれて、みんなの脳内には共通するような場面が浮かんでくるだろうということだ。学生である一人の少女が、住宅街を走っている、それも口には食パンをくわえて。少女はパンを食べながらもはっきりとした口調でこう言う。「いっけなーい!遅刻ー!遅刻ー!」。そう、少女は遅刻をしていて、朝ごはんを家でゆったりと食べる余裕もなく家を飛び出し、その朝ごはんである食パンをくわえながら、急いで学校へ向かっている最中ということだ。だから、少女は走っているのである。そうしてほどよいところで、少女は曲がり角に差し掛かり、男とぶつかってしまう。その男は、ちょうど今日、少女の通う学校に生徒として転校してくる男で、少女とはこの時に運命的な出会いを果たすのである。このあとで、2人は色々な行事やイベントを経て、段々と互いに惹かれ合って——というような具合なのだが、ここまで先を見据えたイメージではなくとも、遅刻だと叫びながら少女が走り、曲がり角で男とぶつかるシーンまでは、共通認識としてみんながもっていると思う。そしてこの場面から「遅刻」という要素を抜き取ってみるとどうだろう。
そう。少女と転校生の男は、運命的な出会いを果たすことなく、であれば、勿論、2人が恋に落ちることもなくなってしまうのである。完全にその可能性がついえるとまでは言い切れないが、しかし、運命的な出会いなくしては、この2人の関係はただのクラスメートである。もしこのクラスが、男女の交流が少ないクラスであった場合、恋愛に発展することはほとんどなくなってしまうだろうし、クラス替えまで一言も交わさないなんてことも十分に考えられる。そうつまり、遅刻がなければ、少女漫画としてまったく成り立たないということなのだ。言い換えるならば、この世の中から、遅刻が撲滅され、「遅刻」という概念が消滅してしまえば、2人の男女が恋に落ちることはなくなり、少女漫画の発展は閉ざされ、ついでにback numberが売れることもなくなってしまうのである。これは重大な損失であろう。ここまで聞いてもまだ遅刻が
「聞いてるか? まったく反省していないだろ。いいか、もちろんな、理由のちゃんとある遅刻なら、たとえばほら、電車が止まって遅れていたとか、何か病院とか、どこか寄らなければならないとこがあったとかなら——」
遅刻も理由によっては許す。それはつまり、遅刻それ自体は悪いものではないということだろう。遅刻それ自体では、それが良いか悪いかなんてことは判断できなくて、その理由が何であるかにかかっている。またそれはつまり、遅刻をしたから、という事実だけでは責められる理由にならないということでもある。遅刻をしたとしても、怒られるために身構える必要しなくてもいい。だって、遅刻をしたことだけでは悪者にはならないのだから、それだけで、一方的に責められる側にされるのは不当であり、不平等で、怒る側、責める側、そのような優位に立とうとする奴らのほうが寧ろ傲慢で、無知をさらけだしているようなものだろうに、なぜそんなにも偉そうにできるのだろうか。


「とにかく、これ以上の遅刻は見過ごせない。だから今回もぶんも含めて、反省文を書いてもらう」
「え」
「え、じゃないよ。原稿用紙を渡すから、これをうめて、書いてきて」
「次……次に遅刻したら、とかじゃだめですか」
「駄目だ。散々言ってきたのにもかかわらず、今日の遅刻で、もう見逃せないって言っただろう」
……なんでだ。……おかしい。どう考えてもおかしい。が、しかし、ひとつ、遅刻が違反的に見える考え方があるとしたら、それは「遅刻をしたこと」を「相手との契約を破ったこと」として見ることだろう。待ち合わせ等々の約束を「契約」として、遅刻はその契約を違反して破ってしまうことに当たると、そういうものとしてみなすのだ。そうなると確かに、遅刻は、相手と交わした約束を一方的に破棄したも同然に思えてくる。しかし、考えてもみてほしい。なぜ遅刻が起きるのだろうかということについて、今一度、よくよく検討してみてほしい。
我々、遅刻をする者たちは、遅刻をして相手を困らせてやろうとはこれっぽっちも思っていない。待ち合わせをしているような相手は、大抵、嫌いな奴でも嫌な奴でもないことがほとんどだからだ。今、目の前でごちゃごちゃ何か言っているこの先生のことすら、別に、嫌いでも嫌でもないし、この先生を、そして他の誰かを困らせてやろうとはやっぱり思っていない。俺が、待ち合わせで遅刻をするとき、そこにはむしろ揺るぎない信頼気持ちがある。むしろそれしかない。もし万が一、遅刻をしてしまっても、遅刻をされる相手は、それを契機に失望したりしないだろうし、怒ったり、責めたり、縁を切ったりしないんだ、という強い確信のもとで、我々は遅刻をする。そういう強い信頼だ。これは確かに一方的かもしれない。強い信頼は、相手が絶対に自分を許すだろうということを、またその関係性を一方的に想像して、押しあてているだけかもしれない。だが、それでもしかし、こちらからの強固な信頼の念は、決して紛いものでも、それに類するものでもない。それは真なる気持ちであり、それゆえに、遅刻をするdare to be lateのである。ある種の油断であり、甘えでもあるかもしれない。親しき中にも礼儀あり、そのように馬鹿みたいに唱える奴もいるかもしれない。それでも俺は遅刻をする。
待っている、いや、これから会ってくれる相手への愛情表現として、俺は遅刻をする。

俺は原稿用紙を受け取り、職員室を出た。足音をなるべく立てないように出ていった。


ああ、そうだった。
俺が言う遅刻には、何かしら自分のパフォーマンスをする機会を約束していてそれに遅れるというのは含めない。何かの発表だとか、それをやる自分がいなければ決して事が進まない場合、それがメインである場合に無断で遅れてくるようなものは、それは遅刻ではない。ただのくそ迷惑な奴のくそ迷惑な行為だ。そのことは忘れないでくれ。


ただ、まあ、今日の遅刻は何の他意もない寝坊が原因だけどね。

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