総集編
え、投稿1つ目なのに「総集編」?
おっしゃる通りです。
総集編とは普通、原作に追いつきそうな人気アニメなどが、今までの放送の名場面などを集めて、余裕を作るための回です。
……これはかなり誤解を招く表現なので訂正しますが、つまり、いくつもの継続を重ねたうえで、それをまとめたものが「総集編」にあたるわけです。「note」で言うなれば、たくさん投稿をしたうちの良かったものを抜粋してまとめる、というような形になるのでしょうか。
そういうわけで最初の文は、1つの目の記事であるのに総集編と銘打つとはおかしな話だ、というもっともな疑問なのです。結成したてのインディーズバンドが、みんなお待たせ!と言いながら1作目にベストアルバムをリリースするようなものです。
ですが、内容にこれから目を通していただける素晴らしい御方なら理解してくれると思いますが、実際、この記事は総集編のような体裁を取っているのです。
その内容としては、「note」用に書いた短い文章が2つ、エッセイが1つ、短編の小説が2つです。それぞれの繋がりは、作者が同じということ以外は全くありません。各文章に軽くコメントを加えて、それをただ載せるだけなので、本当に総集編なのです。だから、許してください。
正直、公開すること自体はかなり恥ずかしいです。拙い構想のもと、拙い語彙を材料に書いた、拙い文章を、このような“公開”という形で誰かに目を通していただくのは、やはり恥ずかしいです。
しかし、それでも、読んでほしいという欲がめちゃくちゃ勝ちました。羞恥などタコ殴りでボコボコです。読んでほしい、なんならちょっと感想とか欲しい、それが褒め称えるものであればなお嬉しい、というかダメ出しとかなら要らないので称賛だけが欲しい、認められたい、知ってほしい。そんな承認欲求の全てがここには在ります。皆が探しに一斉に海へ出るような、ひとつなぎの大自己顕示欲が、ここにはあるのです。
今、ワンピースを引き合いに出してしまったために、高い期待を抱いてこの先を読み進めてしまう方がいるかもしれないので、予め断っておきますが、文章の質は普通かそれ以下です。
勿論、分かっておられるとは思いますが、素人ですし、そういう勉強を積んだわけでもありません。ワンピースという大人気作品に先んじて触れてしまったせいで、個性的で魅力あふれるキャラクター、心揺さぶる仲間との絆、熱いバトル、張り巡らされた伏線……等々に期待しまった方には申し訳ない思いでいっぱいです。
この先の文章は、言ってしまえば、ルフィやゾロ、ナミやサンジといった素敵なキャラクターたちが織りなす友情・努力・勝利の大海賊物語ではなく、鉄壁のパールやMr.5みたいなの奴らが、ちょっとカフェでお話ししてる、ぐらいの感じを想定してください。
(補足として、ワンピースが分からない!という方のために説明しますと、鉄壁のパール、Mr.5ともに大人気キャラです。その、なんというかあれなだけです。鉄壁のパールは、あの麦わらの一味のサンジを、作中で最も追い詰めたと言っても過言ではないですし、Mr.5に至っては、ジョジョの奇妙な冒険の吉良吉影、僕のヒーローアカデミアの爆轟勝己、ハンターハンターのゲンスルーといった名立たる人気キャラと肩を並べる爆弾系能力使いです。また、サングラスをかけた渋いビジュアル、スレンダーかつ高身長、高い任務成功率を誇る優秀な殺し屋、そして先ほど言った通りボムボムの実を食べた爆弾系能力使い……これだけ、人気キャラの必須要素を余すことなく持っているのですから、人気がないわけがありません。)
このように、ハードルを下げられるだけ下げたところで、いよいよ総集編の本編です。長い導入にお付き合いいただきありがとうございます。
ここまで読んで引き返すのも良し、笑い者にするべく歩を進めるのも良し。どうぞ、肩の力を抜いてお楽しみいただければ幸いです。
『note』
この文章はアカウントをつくったあと、初投稿のために書いたものです。”初投稿のために”ということなので、初投稿ではないと辻褄が合わないようなものにしようと意気込み、これを書きました。
「note」
Noteという単語には、辞書で調べる限り、様々な意味があるそうです。記録や覚え書き、文書や注釈、紙幣や音色など、とても中高の授業だけでは触れきれない分岐が見られます。起源は何であるのか定かではありませんし、私の推測出来るような代物でもないですが、私にとってのNoteは「注目・注意」という日本語と強く結びついています。
人間は注意をせずにはいられない生き物であると思います。人間に限った話ではないのかもしれませんが、どれだけ注意を鈍らせることはあっても消し去ることは出来ないと、私はそう思います。極端な話ですが、どこに気を配るでもなく空を見上げてぽかんとしていても、その視線の先を、ドラゴンが大きな翼を広げて横切ったならば、特別な理由は無くともそのドラゴンを双眸で追いかけてしまうはずです。何気なく空に向けられていた注意は、それを上回る何かがあれば簡単にそちらに奪われてしまうのです。たとえ、部屋に籠り、重要な作業に専念していても、外から爆発音とその振動が迫れば注意はそちらに向きますし、ミステリー小説のクライマックス、種明かしを読んでいるさなかに目の前で本当に殺人が起きればそちらに視線を向けざるをえません。とどのつまり、注意というものは強弱はあれど、完全に無になることはなく、移り変わりの激しいものであるということです。さらにそれは、視線と深い関係性にあることも何となく予想がつくものです。
注意が逸れれば、視線が逸れ、視線を動かせば、連関して注意も動く。であれば、視線を誘導することで注意を何かから逸らすことが可能であると考えつくでしょう。マジシャンなどが利用する、いわゆるミスディレクションがこれにあたると思います。この手業とは若干の差異を感じますが、物書きも似たように、視線を利用した注意の拡張や制限といったことを、文章を通して行っていると、私は思います。
視線の先に飛び込む情報の調整。改行や句読点でスムーズな注意の移動を促したり、叙述トリックのように文章構成を利用して注意を逸らし、驚きをもたらしたりといったようなものです。どんでん返しを売りにする小説等では、よく見られる技巧かもしれませんが、必要な情報をあらかじめ隠しておく、つまり視線の先に必要な情報を意図的に置かないことで、注意を制限しているのです。
そんな見事な文章が書けたらなーと思っていたのでしょう、そしてそれが狙って簡単にできるような芸当ではないことも分かっていたのでしょう。だからこうして実践的に文章を書いて慣れようという、それが「note」を始めようとした動機なのかなと思います。
更新はどうしようとしていたのか。
恐らく不定期だと思いますが、この先どうなるかは分かりません。
なにせこの部屋のこのパソコンの前に来ないと書けないのですから。
ただこの部屋はそれなりに整った環境ではあると思いますよ。
靴が丁寧に収納された玄関から入って、キッチンやトイレのある廊下を抜けるとリビングがあり、その右手にある寝室に当たるこの部屋で、今僕はこの文章を書いています。この家はどこも綺麗に掃除されていて、いつ誰を招いても歓迎の二文字を与えられる、それぐらい整っていると思います。寝室の殆どはベッドが占めているけど、ちゃんとパソコン用の机があって、本棚があって、あとオシャレな淡い発色の間接照明があります。部屋の家具の雰囲気とあまり合っていないので、恐らく貰い物だと思います。本棚は半分漫画、半分小説といった割合です。漫画はバラバラですが、小説はざっと見た感じ、ミステリー物が多いようです。米澤穂信、麻耶雄嵩……なるほどラインナップ的にはあまり趣味が合いそうには無いですね。
まあ、しばらくこの部屋にいるつもりなので、できる限り更新します。この文章もですが、いくつか書きかけの物があったので、それらを完成させられたら嬉しいです。
タイミングが悪かったですね。
せめて初投稿ぐらいはさせてあげてから、殺してもよかったかなと少し申し訳なく思っているので、これは僕の罪滅ぼしです。
『初恋』
これは「note」用に書いた2つ目の文章です。「2021/3/2」という記録があったので、だいたい半年ほど前に書いたものになります。
「初恋」
先日、映画『ファーストラヴ』を観ました。島本理生の直木賞受賞作品をもとにした映画で、原作のほうも以前から気になっていたため、この機会を逃すまいと映画館に駆け込みました。嘘です、実際はそんなに急いでないです。
感想として、凝った人物設定やセリフ回しからは文学作品らしさをかなり感じました。そのためか、セリフはやや説明口調な印象も受けました。しかし、登場人物の関係性は設定が巧妙な以上複雑だったので、理解を助けるうえでは非常に助かりました。余り細かく感想を書いていくとネタバレになってしまい、面白さを大きく削いでしまうので、1つ印象に残ったシーンを記述するだけにとどめておこうと思います。
大まかにストーリーを述べておくと、「父親を殺した女子大学生環菜。なぜ彼女は父親を殺したのか。その動機を知るために彼女の過去を心理カウンセラーと弁護士が調べていくのだが、そこには彼女の初恋が深く関わっていた——」といったような流れになると思います。
タイトルは『ファーストラヴ』ですが、この作品では「家族」という隠れた主題が織り込まれていたように感じました。勿論、「初恋」も物語の重要な鍵ではあります。ただ、その裏には、それぞれの家庭だったり、それに付随する愛だったり、といったような「家族」に関連する要素が重視されているように思えました。
※この先で少しだけ……いや、大さじ一杯ぐらいネタバレします
僕が勝手に感じたその主題を鑑みると、特筆すべき描写は環菜の母の腕にあった自傷の痕です。物語終盤でカウンセラーが偶然発見するのですが、観賞中は「ああ、そうだったのか」程度にしか思いませんでした。環菜にも幼い頃から自傷癖があったので、母親も同じだったのか、ということです。しかし、思い返してみると、環菜と母親を繋ぐものがそれ以外に無いことに気が付きます。血の繋がりはありますが、劇中で母親から環菜へ注がれる温かな家庭的愛情といった類のものは殆ど感じられません。つまり、家族らしい寄り添った様子が描かれるシーンが無く、親子としての繋がりが希薄に見えてしまうのです。実際そのように意図して作られているのだと思いますが、その中で唯一、親子であることを明確に示すものが、二人の腕にくっきりと遺された自傷によってできた傷痕なのです。
これが映像化の際に加えられた演出なのか、或いは、原作オリジナルであるのかは分かりませんが、僕のなかで印象に残った場面の1つです。
この映画で描かれる「初恋」からは苦々しい印象を受けますが、「初恋」と聞くと、淡く甘酸っぱい情景を思い浮かべる方も多いのではないでしょうか。僕も御多分に漏れずその一人なのですが、何もそれは、僕に甘酸っぱい初恋の思い出があるからではありません。そのような、煌びやかなロマンスに、どこか憧れがあるからかもしれませんし、そもそも僕は初恋を鮮明に覚えていません。振り返ってみても、どの時点のどの感情が初恋であったのか、判断できないからです。たとえはっきりしていたとしても“甘酸っぱい”なんて美味しそうなものでは到底なく、無味無臭がいいところです。
というのも、私は最近、幼少期の記憶に自信を持てないのです。記憶を辿って、あんなことあったなあ、とは思うのですが、その記憶に登場する人物との連絡が途切れている今、本当にその出来事があったのかを確証付ける自信が持てなくなっているのです。もしかすると、或る地点で観た夢を、現実で経験した記憶と思い込んでいる可能性が無きにしも非ず……とまあここまで聞くとかなり何かしら病魔に侵されていると思われそうですが、実際にそう考えてしまうのだから仕方ありません。
そんな、夢か現か分からぬ幼少期の記憶、その代表例が(恐らく)幼稚園年長の頃に出会った女の子との出来事です。幼稚園の記憶など鮮明にあるほうが珍しい気もします。僕のなかでこの女の子との記憶はこれ以外に殆ど無く、どうして接点をもっていたのかも不明です。
私はフジ組か、或いはスミレ組だかの年長さんで、その女の子は年少さんです。2人は休み時間に仲良く遊んでいます。手をぎゅっと繋いで、園内の廊下をぐるぐると走り回る単純な遊びです。廊下を向こうの端まで走りきると、また走り始めた地点に向かって全力で走って戻っていきます。時には教室に入ったり、外に出たり、飽きることなく楽しそうに二人並んで駆けていくのです。正確には、僕は女の子に引っ張られるようにして走っていました。何がそんなに楽しいのか、僕も女の子も終始笑顔で、きっと誰が見てもつられて微笑んでしまうことでしょう。園内を何周か駆け回ったところで、女の子は道を外れ、教室に居た1人の先生のもとへ僕を連れ立って向かっていきます。走り終えても楽しさは途切れることがないのか、女の子はにこにこと笑いながら、しっかりと繋いだ手を見せつけるようにして先生の目の前に掲げます。「見てこれ」と言いながら繋いだ手を指さして、女の子は先生の反応を熱心に求めています。僕はその時、少し照れていて、顔を背けがちに先生と女の子の顔を交互に見ていました。
この後の先生の反応は覚えていません。ああ、手繋いでるの良かったね、程度だったと思います。しっかりと念頭に置いてほしいのが、2人とも幼稚園生だということです。そうでないと、勇敢な女性が犯罪者を捕まえて警察に突き出す様子になってしまいますから。
この一連の出来事が、最近では、現実にあったことなのか夢に見たことなのか、判断し難いのです。疑ってしまう理由としては、僕の人生の出来事にしては余りにも微笑ましく楽しそうである、という悲しい悲しい理由です。
こんなにもきらきらした思い出は果たして本当に僕のものなのか、二十歳になった現在の僕では体験しようのない出来事で、それゆえに生み出してしまった儚い妄想劇なのか、どちらにせよ、こんな幼い頃の記憶に執着する姿が虚しいことだけは、はっきりとしています。
勿論、他にも幼稚園に通っていた頃の記憶はあります。恐竜キングにのめり込んでいたので、ステゴサウルスになりきり恐竜バトルの真似をしていたとか、どれだけ質の良い泥だんごを作れるか躍起になり、結局割れて叩きつけていたとか、友達だと思っていた男の子の名前を呼んだら「呼び捨てすんな」と睨まれて胸ぐら掴まれたとか、同級生の女の子にお腹を殴られて先生に泣きついたとか、色々あります。ここに挙げていった事柄からお察しの通り、他の思い出と比べても、あの女の子との思い出だけが余りにも輝いているのです。そりゃあ疑いたくもなります。
もし、あの女の子との思い出が現実なのであれば、僕の生涯のなかでも3本の指に入る幸せな記憶です。ですがこれ、本当だったとしても、相手の女の子は当時年少さんと幼かったために、恐らく覚えている人がこの世に僕しか居ません。つまり、夢と現実、どちらに転んでも悲しく虚しい結末になってしまうのです。そのことを頭に入れつつ、淡く微笑ましい思い出をだらだらと語っている部分をもう一度読んでみるとめちゃくちゃ面白いと思います。所謂、蜜の味がすると思います。
ちなみに、3本の指に入る幸せな記憶の残り2つは「握手会で6時間弱並んだ末に乃木坂46の齋藤飛鳥さんに頭ぽんぽんしてもらったこと」、もう1つは……。
えーっと、あー……。
多分これから、きっとこれから起こるはずです。
【注】
※ここから先の3つは縦書きで書いたため、画像とPDFファイルから閲覧できるようにしています。ただ、画像だと多少見づらいです。スクロールも、縦書きの本のページをめくる際の方向とは逆向きにする必要があるので気をつけてください。右スクロールをすると1ページ目からいきなり最後のページへ飛んでしまいます。したがって、画像で読む際には、左スクロール(カメラロール等で画像を見る時と同じ)をしてください。快適さ的にはファイルから閲覧することをお勧めします。
『フルーツ』
授業の課題用に書いたエッセイに少し手を加えたものです。国語のテストで問題文に採用されるような「旅に出てこんな経験をしたぜ俺は」系エッセイとは全く様子が違うとは思いますが、前々から思っていたことを文章にしました。
……この次の一文で自慢を言います、気をつけてください。
このエッセイは、課題となっていた授業の「受講生の作品紹介」において、多数の生徒作品のなかから選ばれ、他のいくつかの文章とともに配布資料に取り上げてもらいました。嬉しかったです。
「フルーツ」
『エイリアン』
これもまた、授業課題用に書いた文章です。しかしあとからかなり手を加えているので、提出時とは構成や表現が大きく変化しています。ショートショートよりは長いですが、短編にしては短いと思います。
「エイリアン」
『小道へ』
短編の2つ目です。友人に促されて書きました。この記事で載せるものはこれが最後になります。
「小道へ」
終わりに
いかがでしたでしょうか。楽しめたでしょうか。楽しめなかった人は、どうにかして楽しめる部分を探していただけたらと思います。
今、この「終わりに」を読んでいるほとんどの方はきっと上から順に読んでくださった素晴らしい御方であると思っています。もしかしたら、読み始める前に結末を知ろうとするせっかちな御方もいるかもしれません。あるいは、未だに受験期のクセが抜けずに、どのような内容が載せられているのか始めにひと通り確認してしまう御方も一部いるかもしれません。いずれにせよ、どのような人でも程度の差はあれ目を通していただいたことにかわりありません。この場を借りてもう一度、感謝の念を述べたいと思います。本当にありがとうございます。
感想は本当にほしいので、読んだ方はぜひ一言でもください。
こう言ってしまうと自信があるように思われそうですね。実際、公開しているのだからそれなりの手間をかけました。また必然的にかけた手間と比例するように自信もついてくるものです。自分でも「ここ良いやん」と思うようなところがないわけでもないのですが、それを自慢げに語ってしまうといかんせんダサい気がしてならないので、しません。
不思議なことに、書き始めて推敲を重ねた頃についていた自信は、さらにチェックを重ねるごとに失くなっていくもので、結局は削りかすのような自信だけが残り、それをロイター板代わりに飛べもしない跳び箱に突っこんでいくような気持ちで公開しています。もっとこんな感じの話が書けたらなあ、なんてことは幾度となく思いました。本当は、張りまくった伏線をばんばん回収したり、進むにつれてパズルのように謎を明らかにしたり、上手い具合に複数の話が噛み合うようにしたりしたいです。そんな憧れのあれこれと比べると、自分のは分量も中途半端ですし、内容の厚みも乏しくて……そんなことを考えていると完成させたときに覚えた愛着はどこへ行ってしまったのかと思ってします。どうなのでしょう、こんな話が書けたらなあという羨望も、熱い熱い男に「できる! お前ならできる!」と鼓舞されたら、実現させられるものなのでしょうか。絶対にそんなものでは不可能だ、と言い切れないところが人間の良いところなのかもしれないですね。
あと、最後にこれは言っておこうと思います。きっかけについてです。小説2本の冒頭でも申した通り、それぞれ作成にあたっての経緯はまるで違います。一方は授業の課題用で、一方は友達との軽いやり取りが発端になっています。ここで問題になるのは後者の方です。
実を言うと、僕一人の力でここまで書き上げられるわけがありません。それは内容的な問題ではなくて、モチベーション面での話です。つまり、僕一人でここまで気力を保ちつつ、小説を完成させられるわけがないよ、ということです。実際、ここに載せたものの他に書きかけの文章がいくつもあります。僕のことを知っている人間であれば何となく察しがつくかもしれませんが、強制力がない事柄に関しては意欲が続かないとか、そのような次元を超えて完成したためしがありません。これは、思えば小学生時代からかもしれません。美術や家庭科や技術の授業で、作品を満足のいく形で完成させた記憶は数えるほどしかありませんし、部活動内でもそうでした。文化祭の展示に合わせて作品を出してくださいという課題に対して、何も作らないという大きな罪を犯したことはあまりにも有名です。無罪放免、時効成立、何とか逮捕は免れましたが。
このように、披露する機会があるものでさえ、完成にまで至らないというのに、どうしてここに載せた小説がこのようなボリュームで完成しているのでしょうか。
それはやはりどこか駆り立てるものがあったのでしょう。
そこで問題になってくるのが、先ほど述べた2本目着手の経緯です。少し詳しく言うと、友達に「俺らも小説書かね?」的なこと言われたために書き始めました。それぞれ書いて、見せ合おうぜみたいなニュアンスです。それが完成への大きな後押しになったのだと思います。掲載した順番とは逆ですが、1つ目の短編のほうがあとで手を加えているので、実質2本分の完成に、大きく関わったきっかけであるということです。このことについては、大変感謝しています。
ただ、しかし、もし、そこで、そこでですよ。「俺らも小説書かね?」と言ってきた奴が、いつまで経っても小説を書き上げなかったとしたら、皆さんはどう思いますか? 散々、期日を守らない自分のことを話しておいて言うのも気が引けますが、ふっかけてきたほうも小説を書き上げて見せてくれないと、僕としてはいつまで経っても最終的なラインが越えられないわけですよ。これは非常にもどかしいことです。
おい、見てるか? 読んでるか? この文章!
私信になっちゃうけど、はやく書けよ! 読みたいんだから! こっちは待ちきれずここで公開しちゃったから!
失礼いたしました。取り乱したうえ、非常に個人的なことで申し訳ありません。最後に言いたいことは言えたので、この辺で終わりたいと思います。
以上、佐々木がお送りしました。
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