感覚の違いによる苦悩
生徒指導担当になって思うのですが、
自分が注意したい!ちゃんとさせたい!
という感覚って大事だと思っていて、
その感覚が似たような人たちと組むと、とてもやりやすいです。
組んでいなくても、話を聞いてくれて、
「やっぱりそうですよね!」
という人が近くにいてくれると、非常に助かります。今まではわりとそんな感じでした。
逆に感覚が違う人たちが多いと、非常にやりづらい。
えっ?私が間違っていますか?って思ってしまい、どんどん自己嫌悪の深みにはまっていきます。
自分が10年以上大切にしてきたことを、
曲げるように言われて、それが自分自信を守ることにつながるのは理解できたけど、
やっぱり納得しきれていません。
夜遅くの時間に2人の同僚の先生に話を聞いてもらって、落としどころを考えてもらいました。
決して私が悪いわけではないけど、今の時代は妥協点を見つけなければいけないし、もっと丁寧な説明がいるのではないかとのことでした。
みんな忙しいのにもかかわらず私の話をじっくり聞いてくだり感謝です。
何が問題点になったのかは、ほとぼりが冷めた頃にまた記事にしようと思います。
配慮とか時代が変わったから、とかよく言いますが、
時代が変わっても変えてはいけない軸みたいなものが、世の中にも教育現場にもあると思います。
もちろん個を大事にするのは大事ですが、
集団生活の仲で自分がどうあるべきか考えないといけません。
他人に迷惑になることはしないようにしなければいけないし、自分1人の意見を通し続けることは難しいのです。
「配慮してほしい」となんだか言ったもの勝ちになっていて、1人への配慮のために、何十人もが不利益を被る場合もあります。
例えば、先日の記事の戦争映画鑑賞会。
大多数が戦争の悲惨さをこの機会に学びたいと思い、辛いシーンがあることを覚悟した上で、戦闘シーンの多い映画を敢えて選んでいました。
しかし、たった1人でも
戦闘シーンがある映画はどうしても無理だという生徒がいたら、ソフトな内容の映画に変えざるをえません。
自分でもここまで配慮が必要なのかと思いましたが、必要という結論になりました。
今というのはそういう時代。
難しい。本当に難しい。
本当は、対話することによる妥協点を探すのが得策だと思うのです。
でも、とにかく嫌な思いをしたから配慮してほしいと、対話することすら拒まれてしまうのです。
対話することで妥協点を見つけ、一歩一歩すすみながら、自分自身も成長しながら幸せになれるのではないかと思うのです。
世の中自分中心にまわっているわけではないので、自分自身変えなきゃいけないこともあるのに。
そう言いながら、実は一番変わらなきゃいけないのは自分なのかもしれないと思い、
もどかしくて、たまりません。
とりあえず寝ます。
おやすみなさい。