不信のとき
有吉佐和子「不信のとき」は夫婦間・男女間の
スリル溢れる愛憎劇を描いているが
現代の日本社会は、別の意味で不信のときを迎えつつある
知らない人の素顔や吐息を極端に恐れる社会の到来である
この現実を作り出したのは「無症状感染」なるものの宣伝という発明であり
それに対する過大評価である
「人の吐く息には、危険なウイルスが入っているかもしれない!」
いやいや、無症状感染は、意識してこなかっただけで
経験的にあったではないか
周囲に風邪引きがいなくても自分に風邪症状が出たことがあるだろうに
しかしながらその発明の日常的な宣伝により
「誰しもがウイルスを体内に持ちうる」というごく自然なことが
単なる暴露を超えて
「感染している!」「うつされる!」と怯える対象となった
本人はいたって健康で
気分も良く、まったく痛みも感じていないのにもかかわらず
恐怖の対象として排斥されても仕方がないという空気が
醸成されたのである
まさに日本社会は、同じ社会を営む人々に対する
「不信のとき」を構築しつつある
…そんないや~な世の中の空気を後押しする言論は
テレビ報道や新聞報道によって後押しされる
2023年1月現在新型コロナの死者数は過去最多を更新中であるという
それでも、来し方の専門家や政治家の発言に基づく公衆衛生政策が
誤っていた可能性を再検討しようとする動きもなく
非難もほぼない
むしろ
一般人に隠れて「犯人」がいるかのように報道されている
例えば
毎日新聞1月20日(金)の「追跡 コロナ死者数 最多」の記事では
死者数の多い理由として「隠れ陽性者」の存在を指摘するのである
統計に表れない陽性者がいる、ということである
本人が陽性と判断されたのにもかかわらず登録しない
登録しない人がいる、という非難の響きがそこにはある
(あれ陽性になった時登録したけれど
ご老人にはネット環境ない場合があるだろうし
よしんばネット環境があっても登録は面倒、写真データを
送ったりしなきゃいけない
具合悪い時にはほんと無理だと思うね)
不思議な話である
これまで感染者数を抑え、死者数を抑えることは
(本来自然現象であるのだが)専門家や政治家による
公衆衛生政策の「成功」という人為に置き換えてきた
しかし、増えている現在も、自らの公衆衛生政策が
マイナスに作用している可能性を一顧だにせず
一般人の誰かに責任転嫁するのである
大体、PCR検査が流行する以前
「無症状感染」として人々の間を引き裂いた同じことが
検査を受けた場合には「隠れ陽性者」とか「隠れた感染」とか
言い直されているだけに過ぎない
新型コロナ以前、街を歩けば何らかの
「隠れた感染」があったことは当然であり
誰もそんなことを気にして充実した生を生きてはいけないから
気にしないでのびのび生活していたのである(健全!)
ごくたまに「バイキンがいる」「ウイルスがいる」といって
神経症になる場合があり、それは精神的な疾患として
治療の対象だったはずである
「隠れているぞ隠れているぞ隠れているぞあなたの隣に」
そういう響きがここ数年繰り返されている
誰かが素顔で普通に呼吸しているだけで
特に田舎町では、厳しい非難の目が注がれる
正しい対応でありあたかも「義憤」であるかのように
報道は特定の専門家を登場させることで、それを後押しする
彼らはいったいどんな社会を構築したいのか
わたしは、誰かをウイルスやバイキンのようにみなして
触らないようにする非接触よりも
誰かが咳をしていたら
背中をさすって慰められる人でありたいと強く思う
日本社会の不信のとき
それでも私は他者と信頼関係を結ぶべく社会の再構築に勤しむ
たとえ常識をうたがわれようが
この空気の醸成に、抗う
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?