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聖職者とは?どんな人であるべきですか?

神父・牧師・僧侶・神主⋯⋯
「神」ではなく人間だよね
ちょっと「神様の勉強・修行」しただけ⋯
いわば「導師」水先案内人⋯
どうしてそんなに「偉そう」なのかな?
どうしてそんなに「したたか」なのかな?

全ては「心」が大事😃💐


【第一章】💐宗教者としての必須条件💐

ここで「聖職者」などと「俺、偉いんだぞ。聖職者だ」ではなく、あえてこれから「宗教人」として表現いたします。



宗教者は「孤高の気高さ」を持つべきかと切に考えます。


え? 分かりづらいですよね・・・


「心」が大事ですから。


聖書・御経を読むだけなら、「読む力」「識字力」「暗記力」さえあれば誰もできます。



しかし、宗教者とは「その人のオーラ」に料金が支払われていると考えます。




昔は僧侶の袈裟というのは「トイレ掃除の雑巾」を縫い合わせたものです。



イエス様もお釈迦様も過去からの「宗教者」のように着飾ってはおりません。


仏教で言えば仏像をご覧ください。


仏様のランクと言いますか・・・


「如来像」「菩薩象」「明王像」・・・と続きますが


如来というのは「ほぼ布一枚」です


「菩薩以下」は「悟りを開く前の修行中の身」なので着飾っていませんか?


僧侶たるもの、率先して着飾ってどうするんですか?


どうしたいのでしょうか?


Jおやじさんからの切なる思いです

精神性だけが表に滲み出て尊敬の心だけで触れることができれば、宗教の存在意義を素直受け入れますが、(全てではないにしろ)損得や忖度がみえみえの姿が公衆の面前に堂々と姿を現してしまうのなら拒絶とならざるを得ないと思います。

例えばですが、あるお坊さん(神父さんでもいい)が、家にお経をあげに来てくれました。駆け付けた車は高級外車、腕には重そうな金時計、胸元には太い金のネックレス、プ~んと漂うコロンの香り(お線香ではなく)。
どう崇高な存在と崇めればよいのやら。


これが「ご遺族の真意」かと。




いつしか金銀の糸に変わり、偉そうにしてはなりません。




以前私はバーを経営しており、いろいろな職種の方々とお知り合いになる経験をすることができました。



ある日、あるお寺のご住職と秘書と見られるお付きの方が来店されました。



その宗教人の方は日頃からどこか上から目線で、事あるごとに「人の優しさ」、「仏の道」を語る方ではありました。



まあその日、そのお二人のみの来店状況だったことはある種「幸い」だったのかもしれません。



秘書の方に、1本のお電話が鳴りました。


秘書の方は店外より戻られた際、その宗教人の方に



「Aさんのお父様がお亡くなりになられました。また予定が決まり次第、ご連絡頂けるとの事でした。」



するとご住職は


「Aさんはお布施が少ない方だから、忙しいと返事しておいて。」と一言。


私はお二人には背を向けた状態にはなりますが、グラスの拭き作業を黙々と何も言わず、行っておりました。


ただ、私の顔は普通では無かったと記憶しております。



その後は何事もなく、接客はさせていただきました。





生活保護の方でも、経済的に不自由な方々でも「最後の時」を迎えます。



その「まさかの時」を「お金の算段」ではなく、即座に「いいですよ。安心して下さい。」と寄り添える「孤高の気高さ」


が宗教者にとって必須の条件だと私は考えます。


お布施はその方々は「できる限りのお気持ち」を握りしめ依頼されるんです。



例えそれが1万円でも5千円でも・・・


即座に「いいですよ。安心して下さい。」と言える「孤高の気高さ」


ひと月の収入が少なくてもいいじゃないですか。


江戸時代の武士の「飯は食わねど高楊枝」同様、それ位の「気品」は持ち合わせるべきかと。


いいじゃないですか。


足りなければ、他で「アルバイト」でもすれば?



私自身、「運転代行」「ご遺体搬送」「警備員」などアルバイトをしながら「僧侶」をさせて頂くきっかけとなった出来事です。


生活保護、生活苦の方々は「ご葬儀〜併せ法要」2日間で
15000円の時もございます。


※沖縄は本土と違い、お布施は平均1日3万〜5万でされております。

通夜式はほぼなく、出棺の日に「出棺式・炉前供養・(葬儀式告別式)・納骨式」まで勤め、数日後に「初七日〜七七日」を「併せ法要」を行います。
これは
本土からのご家族の事情もあり、このような流れになったかと。




あと、日本の僧侶でも世界中の宗教人もそうですが、「身なり」が豪華過ぎないですか?



日本の僧侶の袈裟も初めは「トイレを掃除する雑巾」で縫い合わせたものです。



世界の宗教人も初めから、あのような豪華な服装ですか?



イエス・キリストもあのような豪華な服装ですか?



低所得で、日々苦しむ人々にそのような心で、寄り添えますか?


不思議です・・・


「教義に違和感」があるのなら、その宗教を離れればいいと思います。



宗教人の収入が激減すれば、改心すると思います。


【第二章】では「聖職者」とは?

では「人の心」を説く「聖職者」は「神」なのですか?



仏教で言えば、法要など皆様の前に出る時は「導師」水先案内人です



神本人でない、「一人の人間」です。




悟りを開いていない「菩薩様」より偉いと思っているのでしょうか?




仏教ではお釈迦様の死後、主要な弟子が集まり、



「異説は排除しない」



の信念を決定し、その後他宗教宗派の考えは否定しません。



仏教誕生より現代まで「大きな争い」は皆無です。



「選民思想」など自分らの都合のいいように「神の名を語る悪人」が説教するから、「内なる光に従う」つまり「神の言葉を聞かず自分の心の声に従う」なんぞダブルスタンダードが出来上がるんです。


キリスト教はユグノー戦争だけでもカトリックとプロテスタントで300年に及ぶ戦争をしました。


ヨーロッパの列強により、南米、アフリカ、アジアを植民地化していったのも「カトリックとプロテスタントの権力覇権争い」です。


仏教の二大宗派、大乗仏教と上座部仏教でそんな戦争はありません。


しかし、キリスト教聖職者の「神の名の下に、人を騙し操ろうとする行為」があったのです。


ヨーロッパの宗教革命なんてそうです。



歴史的事実としてキリスト教の「宗教改革」は16世紀から17世紀にかけてキリスト教世界で起こった運動です。


発端は「サン・ピエトロ大聖堂の改築に際し、発売された贖宥状つまり免罪符の販売に、ローマ教皇レオ10世は踏み切った。


当時十字軍の戦費を工面する為、度々販売されていたので、信者さんは疑いもせず爆発的に売れたんです。 



しかも、「搾取?」と思われるくらいの高額。


マルティン=ルター氏は異議を唱えました。


「十字軍の時から販売される免罪符は細やかな罪は免除されるとお金を集め、さらには今回あらゆる罪が免除されるとは何事だ?」と。


普通に聞いても「無視のいい話」です。


人を殺しても、お金払えば許される?


すると、教皇は「教皇批判としている!」と「サタン」扱いして断罪しました。


そんな騒動の中、徐々に教皇の悪事が明るみになっていきました。



そう、教皇はメディチ家出身で、贅沢三昧の生活で破綻し、さらには教団のお金を食い潰し、借金返済の工面する為に「免罪符の販売」をしたのです。


またこの資金を貸し付け、高利貸しで儲けたのはユダヤ教
のユダヤ人なのです。


詳しい因果関係は有料記事にて


この騒動がきっかけで、旧態の「カトリック派」と別で「プロテスタント派」という大きな二大宗派が出来上がりました。



キリスト教聖職者からすれば、「同じ信仰を持つ者」なんですが「キリスト教徒の黒人の方々」は「人に値しない奴隷」ですか?



あちこちに「神の名を語る悪人」が潜んでいます。


これは、仏教とて、ありえない話ではありません。



ここ沖縄那覇市で、去年はじめに住職が「仏像を彫りたいから」



とホームセンターより高価な工具を窃盗し続け、逮捕されました。



この住職もその妻も僧侶なのに、そこで修行していた方々の支払った高額な修行代は返金せず、「悔しかったら裁判でも起こして反論すればいい」と


せせら笑い、お寺を閉鎖して逃げ回っています。



これって幸せですか?


これって「優しい」ですか?



普段「人の優しさ」を説く住職のする事でしょうか?


改心させる鉄槌も必要ですよね?


「選民思想」など自分らの都合のいいように「神の名を語る悪人」が説教するから、「内なる光に従う」なんぞダブルスタンダードが出来上がるんです。



【第三章】「内なる光に従う」のダブルスタンダード


キリスト教には、「内なる光に従え」なんぞダブルスタンダードがあります。



一神教のような「他を認めない絶対的存在の言葉」の言葉に、必ず「意に沿わない色んな悩み・考え・行動」がが必ずあります。



その時に「聖職者の答え」は「内なる光に従え」なのです。



キリスト教は一神教で性善説だが、邪教の存在も認めている。  



有料記事にも書いているが、イエス様は生涯「ユダヤ教徒でユダヤ教の宗教改革として説きはじめた」と。


では、誰が「新約聖書」を書いた?




誰が「キリスト教」とした?





ユダヤ教は性善説で「一切の悪心」は無いとしている。




キリスト教は土着の多神教と折り合いをつけた。




では、神に反抗し戦争を仕掛けた「満面の笑みの天使ルシファー」




争いに負け「悪魔」の始まり「堕天使ルシファー」



どこから出てきた?





この「内なる光」




「キリスト教の教義に反してるが、人の本心」



「悪心」って「人の内なる声」ですから。


「良心」も「人の内なる声」ですから。



本音「教義に反した言動」と建前「教義に則った言動」ができた



ただキリスト教に都合の悪いものは悪として排除するんです。


キリスト教徒が「博愛だから、他宗教多宗派も認めようよ。」と「優しい」本音があっても、それは「悪」として周りには判断されるのです。



実際、宗教改革で都合の悪い事として、ルターは「サタン(サタン)と教皇から認定されたよね?


ルターはサタンですか?



これ、「優しい神の判断」?


「内なる光」はサタンの言葉?



仏教では「善も悪も全て人の心なので、それを理解した上で、心を整えましょう」という考え方です。


本音を捨ててしまえば、建前の中に自分を閉じ込めてしまう。



洗脳されている畜度高い周りの中では、「自分が間違っているのでは?」と精神的孤独になる。



そうなると、自分の足で立ち、自分の頭で考えるのが怖くなってなってしまう。



本音を言えない「精神的牢獄」に軟禁されてしまうのです。



人は皆違うんです。


「教義絶対」という教えに対して「神のお気持ちに反する優しくない心」ができると、「歪み」ができるんです。


「博愛」を説くイエス様や神に対する冒涜です。


優しくなろうよ。



【第四章】多神教の日本でも「選民意識」の牧師さん

日本にいても「異文化」に触れることはできる。



まあ街には海外から来られている方々では、本当に多くなりました。



キリスト教などの「一神教」の宗教人です。



私の周りにも「仏教も認めますよ」と言いながら



「お釈迦さんよりイエス様の方が上ですけどね。」「イエス様がお釈迦さまに教えた」なんてはっきりマウントしてくる不遜な牧師も実際いました。



僧侶の私ですが、「他を認める」精神だし、高校卒業の頃まで



「キリスト教」の信仰心もあったので、知り合いの牧師さんの行う洗礼式「パブテスマ」にも参加?見学させてもらったのですが・・・



ちなみにカトリックは「神父さん」プロテスタントは「牧師さん」です。



「仏教も認めますよ」とおっしゃる牧師だったのですが、安心してお付き合いしておりました。



カトリックを否定する牧師の話をしても「そんな牧師は牧師じゃないね」とまるで他人の静かな笑顔⋯



しかし結局カトリックは認めなかった。



般若心経の



「人は皆違う・違うからこそ違う他人を認めよう」とする仏教の考えを話したら、



「それは、キリスト教の考えを学んだんだね。」



とびっくりする答えが返ってきた。


え?



お釈迦様ってイエスキリスト様より500年も前に生きた方なのですが?



彼らの目の奥が笑ってない・・・マジみたい(汗)



つくづく思います😊



宗教人の穏やかな「笑顔」って、サイコパスの静かな笑顔に見えるのって私だけでしょうか?



「極めた人」の穏やかな笑顔ってちがうんですよね



ダライ・ラマ氏の笑顔のような⋯⋯⋯


冷たい笑いじゃないんです💦



指摘してもねぇ🤔



態度を改めないので、離れました。



結局、「唯一神」聖職者は、本心は他宗教・多宗派の人は認めないんだなと悟りました。



各宗教色々書いていますが、否定しておりません。

「教義の違和感」「存在意義」「存在理由」の事実を理解した上で、信仰して頂ければと考えます。

私も生保・生活苦の方々をサポートする為に執筆しております。お気持ちの応援頂けると幸いです🙇✨️
僧侶は宗教法人と違い税金納めますので

頭の片隅にでも置いてて頂ければ🙇





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