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「月光ソナタ」の思い出

仕事からの帰り道、車を東に向けて走らせていたらとても大きな満月が見えた。

運転中でなければ写真撮影をしたところだ。晴れ渡った空に大きな月がとても綺麗で、ウサギが餅つきをしているところが実によく見えた。

月といえばありきたりだが、ベートーヴェンのピアノソナタ「月光」を思い出す。この曲はクラシック曲の人気があまりないドイツでもピアノ学習者には結構人気な曲だ。(少なくとも私の生徒の間では)

第1楽章だけだが。

3ヶ月間代理で教えた生徒

ベートーヴェンの月光ソナタを弾けるようになりたい、という生徒は数人いたが、その中でもよく思い出すのは知人の生徒を代理で教えていた時のことだ。

その知人はドイツの音大を卒業した中国人だった。彼女が中国に3ヶ月一時帰国するから、その間、自分の生徒にピアノレッスンをしてくれないか、という依頼だった。

3人いた生徒のうちの1人は、両親とも中国人だったが離婚して母親に連れられてドイツ人と再婚していた。だがその生活もうまくいかず離婚騒動の最中だった。

詳しい家庭環境はあえて尋ねることはしなかったが、生徒のLちゃんの生活環境が落ち着いていないことはレッスンを受ける様子でわかった。

自宅にピアノはなくキーボードで練習をしていたらしい。まだ初心者で楽譜があまり読めない、両手で弾くのが精一杯というレベルだったからキーボードでもよかろう。鍵盤の数は少なかったらしいが。

それにLちゃんは私の生徒ではない。3ヶ月代理を務めるだけだ。楽器に関しては彼女の本当のピアノの先生にお任せするしかない。

「月光ソナタ」を弾けるようになりたい!

毎週のレッスンにはキチンと通ってきたが、練習はさほどしていないようだった。

そんな彼女、Lちゃんが私のレッスンを受けるのもあと4週間、となった時に言った。

「せんせい〜あのね、ベートーヴェンに「月光」っていう曲があるでしょ?あれを弾いてみたい」

へ?全くというくらい練習をしてこないこの生徒が、ベートーヴェンの月光だって??

私は楽譜棚からベートーヴェンのピアノソナタ集を取り出し、

「あのね、その曲ってこんな楽譜なんだよ」

と見せた。沢山の音符と臨時記号を見て諦めるかと思った。

だが、「この楽譜、高そうだね。欲しいなあ」というではないか。

ピアノを弾く方ならご存知だろう、ドイツの楽譜出版社「ヘンレ」のピアノソナタ集第1巻だ。

ベートーヴェンの全32曲のピアノソナタが2冊に分けられて出版されている、そのピアノソナタ集の第1巻で、15曲ものソナタが収録されている。

Lちゃんはこの楽譜を買う、と言う。

「弾きたいのは月光ソナタの1楽章だけだよね。月光ソナタだけの本も出版されているよ。そちらにしたら?」

なんたって15曲もの曲(ソナタだからね、1曲だけでも長い)が入った本だ。分厚くて重い。そしてお値段もそれなりにする。大人なら「全集だったらコスパもいいし、ベートーヴェンの他のソナタも知ることができて良い」とも思えるけれど、Lちゃんはその時まだ10歳くらいだった。

だが、Lちゃんは

「できるだけ高い楽譜を買いたいの」

と言うではないか。「お金をもらえるから、それを使い切ってしまいたい」と言う。どうやら母親の離婚がらみで不満がいっぱいといった感じだ。


ベートーヴェンの月光ソナタ第1楽章

眩しく光っているけれど、窓から見た満月

月光ソナタの話をした翌週、なんとLちゃんは本当にベートーヴェンのピアノソナタ集を買って持ってきた。

「楽譜を買ったよ。月光の第1楽章をやりたい」

本当にやる気なの?練習してくれるの?大変な曲だよ??

以前も私にはこういった「突然ピアノの難曲に挑戦する」生徒がいたが、厨二病のような、家にはキーボードしかない、しかも親は離婚騒動という環境で、Lちゃんは本当にこの曲に取り組めるのだろうか?

いつも表情に翳りがあるLちゃん、どうしてもやりたいと楽譜まで用意したのなら付き合うか?大丈夫か?楽譜を読むだけでも大変だぞ。

有名な曲ならピアノ学習者用に易しくアレンジした楽譜もある。だがLちゃんはシャープの4つついた原曲を弾きたい、という。

自分のレベルに合わない難易度の高い曲に憧れからチャレンジして、すぐにギブアップする生徒もいた。Lちゃんにも「この曲はこんなに難しいんだ」と納得してくれるまで我慢するか?

ところが、である。今回はこの「いきなり超難曲にトライ」が良い方に向いたのだ。

残りの4週間のレッスンでLちゃんは「月光ソナタ」の第1楽章を最後まで、しかも暗譜で弾けるようになったのだ。原曲を、だ。

毎日、この月光ソナタの曲を聴いたのだろう。楽譜を全て読みこなした、というより半分以上は耳コピで弾いた感じだった。楽譜を見ていない上に、間違うと「あれ?響きが違う」と言った顔をしていた。

つっかえつっかえの演奏ではあった。だが楽譜通りに弾いた。本当にびっくりした。


2020年に発行されたベートーヴェンの記念切手

その後の風の便りでは、両親の離婚に伴いピアノのレッスンを辞めたらしい。ちょっと残念だ。

せっかく分厚い楽譜を買ったのだ。ピアノを再開できる環境になってピアノを再開しているといいなあ。

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