美術館嫌いなアート好き

美術館という空間が嫌いだ。
美術館はアートを楽しむ場ではない
見知らぬ人々が一つの空間に集い、作品を観るために押し合い圧し合い…。有名な絵画などを目に焼き付けようとしている人々。
もはや作品を観ているのではなく、人を見に行っているようなものだ。

最近ではスマホで作品を撮影する人々も増えたが、正直言ってスマホで作品を撮影するというのはなんとも虚しい行為である。
もちろん、好きな作品を自分のスマホに収めておきたいという気持ちは理解できる
しかし、スマホという機械に目の前の絵画の細かいニュアンスなどを全て収めることは不可能だろう。
最近のスマホはかなり画質が進化しているが、それでも細かなニュアンスまで収めるのは無理だといえる。

結局、美術館に訪れている人々は本当の意味で絵画を観ていないのである。
例に漏れず、私も美術館において「本当の意味での作品鑑賞」を行ったことはない。

美術館という空間はとにかく忙しない
私は美術館嫌いを主張しているというだけあって、自ら美術館へ赴くことはほとんどない。しかし、時々誘われて有名な展示を行う美術館へ行くと、やはりその忙しない空間に不快な思いをすることとなる。
もちろん絶対に美術館へ行きたくないというわけではないので付き合いで行くのであるが、こんなところへ来る意味とは何だろう?という疑問が生まれてしまう。
誘ってくれた相手には悪いのでポジティブな感想しか口には出さないが、心の中はネガティブな感想で溢れている

鑑賞中も当然ながら私は全ての作品を流すように見ている。作品の横にある小さい文字で書かれた説明など読んではいないし、作品の大雑把な雰囲気を把握したらもうそれで終わり。
他の人々はしっかりと説明を読み込んだり、作品を凝視しているのだが、そんなことをするくらいならさっさと次に進み、さっさと美術館という空間から脱出したい。

タイトルにもあるように、私はアートが大好きだ。もっと言えば絵を描くことが好きだ。
だからこそ多くの芸術家の作品の素晴らしさを理解しようという気持ちは持っているし、美術館という空間でアートに触れるという行為に対しても好意的な見方はしている。
ただ、美術館という見知らぬ他人が蠢いている空間でただ単に絵を自分の視界に入れたところで「何になるのか」という冷めた感情が心の片隅に生まれてしまうのである。

先にスマホで絵画等を撮影することを批判したが、これがスマホではなく自身の眼球に変わっても話は同じだ。
だからと言って画集なんかを見てもその絵の質感などを実際に感じとることはできない。

このように比べれば、眼球に焼き付けることが多少は優位な鑑賞方法ともいえるかもしれないが、私を含めた多くの人間というものは「本当の意味でのアート鑑賞」をしていないのであるから、如何なる方法であってもアート鑑賞というものは本当の意味での成功を実現することは不可能なのである。
誰も彼も美術館で作品を見ている者は存在しない。


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