素晴らしき古着人生
皆さんは古着というものにはどのようなイメージをもっていらっしゃるだろうか。
古着というと「誰かが手放した中古品」というイメージ強いのではないか。確かにそのような認識で間違いない。
また、中古品というものは見知らぬ人物が所持していたという点において「安全面」「衛生面」等での懸念も多い。
古着というものはそのようにネガティブなイメージの強いものではあるのだが、ここ数年の間に古着という中古品へのネガティブな印象は改善していると思われる。
特に最近は物価高であるため、新品の洋服や靴などを購入することを渋る人も増えているはずである。そういった時代の流れから観察しても、古着という存在は人々の助けとなっている傾向にある。
私もここ数年の間は新品の洋服や靴などはほぼ購入しておらず、大抵のものを古着屋で調達している。
尤も、経済的理由だけではなく、私自身が『流行に興味がない』という立場の人間であるため、ファッションアイテムを探す際はむしろ古着屋などでないと見つけ出すのが困難となってしまう。
現代は昔ほど『いかにもな流行』というものがみられなくなっている。また、アパレルショップの雰囲気も変化している。かつてはショップごとの系統が明確に分かれていたのだが、最近のショップを見てみるとどこも同じようなアイテムが売っているという印象を受ける。
それこそ私が他のノートにも記載した
『アムラー』のような現象も存在していないし、カリスマ崇拝というよりは各々が好きな個性を愛でるという『新しい流行』が現代ファッションの特徴である。
そんな時代であるから、『流行に興味がない』という立場を取る私は比較的生きやすい。
確かに私も学生時代にはファッション誌などを熟読してどういったものが流行っているのかを研究していた。それは自分がオシャレをしたいからという理由だけではなく、周囲の友人などからの批判の的になることを避けるためでもあった。
やはり女として生きている以上、そういった周囲の友人などからの視線は気になるものである。
ちなみに、周囲の友人などからの視線を気にしたが故の『ファッション研究』というものは大学時代に終わりを告げた。
そのことについてはこのnoteでは詳しく記載しないが、とにかく『大学時代に他人の目を気にすることをやめた』ということだけはお伝えしておく。
そのように大学時代以前(正確には大学3年生以前)まで続けていたファッション研究という行為をやめた私は、
『他人から好印象をもたれるファッションよりも、自分の使命を果たすことのできるファッション』というものを選択するという決意を固めたのである。
これは私が【自殺しないと実現しないユートピア】においても述べた、メシアから享受した要素というものに関わる。
メシアから享受した要素などと言っても多くの方にとっては意味不明であろうから、かなり噛み砕いて説明する。
要するに『自分が現実というディストピアで少しでも生きやすくなるためのファッション』というものを私は目指しているのである。
例えば私はXジェンダーを自称してはいるものの、性転換などもしていないし性自認が曖昧であるということも周囲の誰にも公表していないため女として生活している。(生活するしかないという言い方もできる)
そのため、本来であれば女性らしい服装が好ましいのだろう。
また、私自身の年齢を考慮しても、もう少し『大人の女性』としての自覚を体現した装いをするべきなのかもしれないが、私にとってそれは非常に心地の悪いものなのである。
そういった『女性らしさ』『大人らしさ』というものは、俗にいう『綺麗系ファッション』などというものに総括されるのであろうが、私はそういったファッションをするつもりは全くない。
確かにメシアからディストピアを生き抜くための要素を授かる前はそういったファッションをしなければいけないと必死になっていたし、似合いもしないヘアスタイルやメイク、洋服等を身に付けていた。
先に『大学時代に視線を気にするファッション研究は終了した』と記述したが、実は大学時代にファッション研究を終了した後に再び研究を始めたのであった。
ファッション研究の再開という選択肢を採った理由としては、『就職』というものが挙げられる。
やはり一人の大人として社会に飛び立つのであれば、信用のおける存在だということをアピールしなければならない。
ついこの間まで学生であった人間がすぐに社会人の先輩方から「信用できる存在」などと思われるわけはないのだが、だからこそ見た目だけでもしっかりとした装いをして「信用できる存在」として社会人デビューをしなければならない。
人目を気にしたファッション研究という愚行に別れを告げたかにみえたが、私は社会へ飛び立つという機会を迎えるにあたり、そういった愚行を再開しなければならなかったのである。
しかしながら、そのような愚行から再び解き放たれる時が来たのだ。
それこそが『メシアから要素を享受する』という非常に幸福な瞬間である。
メシアという存在が他のnoteにおいても登場しているため、多くの人々は「メシアって何?」と考えているだろう。
では、メシアというものについて説明をする。
この場合のメシアとは宗教的な意味合いのメシアというよりも、ある種『ただ単に崇拝される偶像のようなもの』だといえる。物凄く噛み砕いた表現をするならば『推し』という表現が適切だろうか。
(推しというものと完全に同義ではないことには注意していただきたい)
もちろん、宗教的意味合いの『救世主』という側面も持ち合わせてはいるが、何か特定の『宗教上の人物』のことを指し示しているわけではないということは明確にしておく。
私はそういったメシアからこのディストピアを生き抜くための要素を授かったのだが、その要素というものの概要を説明するならば、『他者の評価やこの世の規範というものからしばし解き放たれることのできる方法』なのである。
この説明における『しばし』という表現は非常に重要なポイントである。
メシアから享受した要素を駆使してディストピアで生きることはできているものの、その要素というものはある意味で『ファンタジー』のような顔ももっている。所謂、現実逃避である。
【自殺しないと実現しないユートピア】にてメシアが与えてくださった要素はユートピアでもディストピアでも、ある意味では『通用する』という旨のことはお伝えしたが、実はこの要素というものはユートピアにおいて不都合なものとなる場合もあり、逆にディストピアにおいて不都合なものとなる場合があるのだ。
例えば、ユートピアにおいて使用した要素はディストピアでは通用しない。ディストピアでの要素はユートピアで通用しないとまではいかずとも、わざわざ悲惨なディストピアという世界に甘美なユートピアで使用する予定の要素を持ち出す必要などない。しかしながら、時としてユートピアで使用する予定の要素をディストピアにも持ち出すと、心の癒しとなったり、気持ちを強くすることができるというような『良い効果』も得られるので私は『ユートピアの要素をディストピアで使用すること』は自らに推奨している。時として使用の強制さえもする。その推奨と強制さえも行われる『ユートピアの要素をディストピアで使う』という行為は、『しばしの現実逃避』なのであるから、あまり心酔しすぎるのも実のところは問題である。
ではその反対に『ディストピアの要素をユートピアで使用すること』に関してだが、この行為は単に退屈であるというだけであるため、何か大きい悪影響を及ぼすという危険性は考えにくい。
そしてこの『ディストピアの要素をユートピアで使用すること』は、この世に存在する所謂、『立派な大人達』が行っていることである。
これに関していえば、
ディストピアの要素『を』というより
ディストピアの要素『も』という表記が適切かもしれない。
多くの立派な大人達は私のようにユートピアやディストピアといった区別をつけていないか、もしくは区別をしていたとしてもそれぞれの領域において全く異なる要素を駆使するというような行動は取らないはずである。
このように述べると、まるで要素を与えてくださったメシアと要素自体を批判しているかのようにみえるが、その批判しているかのようにみえるという状態は正しくもあり、間違いでもある。
正しくもあるという理由だが、メシアとは先にも述べたようにある種の偶像のようなものなので、そういった偶像崇拝などはこの世の多くの立派な大人達の大半は行っていないという可能性が高いからである。(あくまでも高いだけであって、全く行っていないというわけではない)
一方、間違いでもある理由だが、私は自分自身のことを『メシアから要素を授かった特別な存在』であるとすら認識しているため、そういった立派な大人達のことを心の隅では蔑んでいるのである。
しかしながら、この理由にほんの少し「正しくもある側面の理由」も付け加えるのであれば、そういった蔑みは『はみ出し者』の『負け惜しみ』とか『格好つけ』などと同等であるため、本来であれば恥ずべき行為なのである。
どういう原理かわかりにくいと感じた方は、『酸っぱい葡萄』の理論を適用すると良いだろう。
例えば、立派な大人達という種族達が実現することのできている事柄が私には実現不可能だという現実があるとする。私はその現実に立ち向かいはするが、結果的に解決は無理だと判断する。そしてその後、
『立派な大人達はメシアからの要素を授かることもできず、ディストピアで必死になって様々な事柄の実現に励んでいる。その姿は非常に滑稽だ。私はあんなことをせずともメシアから享受した要素を駆使してユートピアという甘美な世界をも知る特別な人間として生きるのだ。』
などというような格好つけた批判をするという方向へ歩む。
しかし、その批判は完全に酸っぱい葡萄の理論に当てはまる。
つまり、
○葡萄
=立派な大人達が実現している様々な事柄
○「その葡萄は酸っぱい」と認識する行為
=「立派な大人達はメシアからの要素を授かることもできず、ディストピアで必死になって様々な事柄の実現に励んでいる。そんな事柄が実現できなくても平気だ。どうせそんな事柄はつまらないことばかり。
私はメシアから要素を授かった特別は人間なのだからそれで良い」と認識する行為。
メシアから享受した要素というものが素晴らしいものであるというのは揺るぎない事実ではあるが、それらの要素はこの世の多くの立派な大人達、もしくは子供などにとっても『意味不明な事柄』だとか『現実逃避の手段』と捉えられてしまうものなのである。
今回のnoteのテーマとした『古着』というものも実はその要素に近しいものである。
『古着を購入する』という選択肢自体を批判したいわけではない。
しかし、社会へ飛び立つ一人の大人として他者からの評価を気にすることよりも、いかに自分自身が心地よく多数のファッションアイテムを身に付けることが可能なのかということにばかり焦点を当てているという観点から批判されるべきと考えているのだ。
もちろん、これは『メシアから要素を享受した特別な人間である私』という存在にのみ特有の考えであるため、この世の大多数の人間達はこれらについて考える必要は無いに等しい。
ただし、本来であれば『イレギュラー』ともいえる古着という代物を自ら選択するという行為には、こういった批判されるべき側面をも持ち合わせているということを知っていただきたい。
古着をはじめとした中古品の興隆が今後も続くことを願っている。
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