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演繹法と帰納法

 演繹法とは大雑把にいえば、「AならばB」、「BならばC」という考えから「AならばC」という考えを構築することである。「AならばB」という情報と、「BならばC」という別々の情報を組み合わせることによって「AならばC」という新しい情報を得ることができる。

 一般的にいわれる「考える」という行動は演繹法による思考方法である。経験とともに理解したさまざまな情報を組み合わせて考えることで、何らかの判断をしている。学校で教わった知識、家族から教わった知識、インターネットで調べた知識など、経験を積み、時間が過ぎるほど多くの経験が記憶として蓄積されていく。

 その記憶を組み合わせて何らかの考えを構築し、何らかの判断をしている。なるほど教わったさまざまな前提を元に考え、情報を組み合わせれば、正しい考えを構築できるはずということである。

 だが記憶は忘れていくものである。思い出すことができないほどの知識や経験が記憶として保存されている。この文章を読むには「ひらがな」や「カタカナ」、無数の「漢字」などの知識が必要だが、多くの人は瞬時にその意味を理解して読むことができる。

 それをいつどこで誰からどうやって教わったのかはもはや覚えていないし、その後どのような経験からそれを「正しい」として認識したのかもわからないが、それは「正しい言葉」として認識しており、その前提にたって文章を読んでいる。

 だが言葉を間違えて覚えていたという経験は誰にでもあるものである。「姑息」や「敷居が高い」などの言葉はよく誤用されているといわれる。考える上での前提は、本当に正しいといえるのだろうか。

 帰納法とは複数の経験、情報から法則性を見つけることである。言葉の例でいえば、その言葉がどのような場面で、どのような意味として使われているか、多くの人は経験的に理解する。教科書的にはカラスを1羽見たら黒かった、2羽目も黒かった、3羽目も…となれば自ずとカラスは黒いという法則に気が付くということである。

 帰納法による理解は、要は情報を並べたときにそこで成り立つ法則ということでしかない。とても曖昧な理解だが、人間が何かを理解するというのはそういうことでしかないのである。

 どんなに「科学的に正しい」といっても、それは確からしさを高めているだけであって、明日急に未知の現象によって、すべての法則が変わるという可能性を否定できない。

 人が考える上で前提とする正しさは帰納法による理解でしかなく、どんなに演繹法で正しさを追求したとしても、その理解には限界がある。

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