備忘録的な紐付け知識学 ~三日坊主頑張る編~ しょの5
フェリペ4世の在位は、1621年から1665年。無能王の統治が44年間続きました。
日本は、江戸時代です。
意外とキリシタン関連の処理が終わってなくて、
処刑が続いていたり、
1624年、スペイン船の来航禁止
1626年、踏み絵を始める
1630年、キリスト教関連の漢訳の洋書の輸入禁止
1639年、ポルトガル船の来航禁止
1646年、江戸に切支丹屋敷ができる
と色々ありますが、キリスト関連はお腹一杯なので、
切支丹屋敷って何?だけ書きます。
切支丹屋敷は日本に流れ着いた宣教師を収容する屋敷です。
文京区小日向にありました。
屋敷跡の記念碑と、拷問で亡くなった八兵衛さんと言う信者のお墓(なのかな?)、生き埋めにして石を置いた八兵衛さんの夜泣き石があるそうです。
碑の近くの坂は、切支丹坂とか幽霊坂と呼ばれています。
そりゃ出るわ。
1657年(明暦3年)に明暦の大火があります。
これはもう、今村翔吾先生の「ぼろ鳶」のファンとしては、食いつかない訳にはいきません。
ぼろ鳶が1770年代の物語なので、明暦の大火はその120年位前の事になります。
江戸の大部分と、江戸城天守 本丸 二の丸 三の丸を焼きました。
死者数は3万から10万人以上とも言われています。
江戸の三大大火で(明暦の大火、明和の大火、文化の大火)、その中でも最大の大火です。
また、世界三大大火(ロンドン大火、ローマ大火、明暦大火)の一つです。
ここ、クイズにでます。
明暦の大火は、俗に(振袖家事)と言います。
上野 神商大増屋の娘 オキクは花見で見かけた美しい寺小姓に一目惚れをし、小姓が着ていた着物の色模様に似せた振袖を拵えてもらい、いつも着ていました。しかし、愛しい人とのめぐり合いは叶わず、恋の病に伏せ、明暦元年1月16日に亡くなってしまいました。
両親は、棺の上に振袖を掛けて、本郷丸山の本妙寺に葬りました。
寺では、法要が済むとしきたり通り、振袖を質屋に売り渡しました。
その振袖を大層気に入ったのが本郷元町の麹屋の娘 オハナでした。
両親にねだり買って貰ったのですが、それ以来病に伏し、明暦2年1月16日に亡くなります。
振袖は再び質屋の手に渡り、売り出されました。
三番目に購入したのが、麻布の質屋の娘 オタツ。
オタツも一度振袖に手を通したきり、病に伏せて明暦3年1月16日に亡くなります。
オタツの葬式の日、たまたま娘の法要に来ていたオキクとオハナの両親達は、オタツの棺に掛けられた振袖を見て愕然とします。
そこで、三家族は話し合い、供養をして振袖を焼き払う事にしました。
明暦3年1月18日、和尚の読経と共に振袖は火中に投げ込まれました。
その時、突然一陣の風が巻き起こり、振袖を宙に舞わせました。
振袖の日は本堂に引火し、瞬く間にあちらこちらに燃え移り、江戸を焼け焦がす大火となっていきました。
こう言う因縁話を江戸の人は好きなので、フィクションなんでしょうけど興味深いですね。
因みに、前述の寺小姓と言うのは、寺に住まい、住職の身の回りの世話をした若者の事です。半僧半俗の立場で、髪を切らなくても良かったそうです。身の回りの世話なので、時には男色の相手をしていて、女性が男装して寺小姓をすることもあったそうです。
寺小姓を辞めた後は、御家人株、足軽株を買って、武家に行く
身請けされて町人になる
結婚して町人になる
と、道は幾つかあったようです。
紐づけます。江戸のヒーロー火消しについて。